元陸軍省軍事課予算班員が回想する関特演

昨日のエントリで言及した『陸軍の反省』(加登川幸太郎)の紹介。著者の元陸軍中佐は1940年に陸軍省軍務局軍事課資材班員となり、翌3月に予算班に異動。41年3月当時の陸軍大臣東條英機、陸軍次官が阿南惟幾、軍務局長は武藤章参謀総長杉山元、参謀次長が塚田攻、作戦部長が田中新一、関東軍司令官は梅津美治郎、参謀長は木村兵太郎である。なお41年4月に木村兵太郎が陸軍次官へ異動、吉本貞一が関東軍参謀長となっている。
関特演=関東軍特殊演習とは、ドイツのソ連侵攻の情報を察知した参謀本部がドイツ軍の勝利に乗じて対ソ戦を開始しようと画策し、そのための動員計画につけた名称である。旧軍については色々読んできたがこれを擁護する議論はみたことがない、という程の愚挙なのだが、ドイツ軍の破竹の進撃が止まって対ソ開戦も沙汰やみとなり(8月9日に41年中の対ソ開戦を断念する旨決定)、ソ連に対日参戦の口実を与えただけに終わった(しかもその時には満州に動員した部隊のうち精鋭は南方戦線にごっそり引き抜かれてしまっていた)のだから当然といえば当然である。
だが資材班、予算班に勤務した著者の回想によれば愚挙としての関特演のスケールの大きさがよくわかる。参謀本部が要求した戦争準備は満州、朝鮮に駐留する14個師団の動員、内地から2個師団の増派、その他軍直属部隊の増派であった。当初、関東軍の現有兵力(約35万)で戦争準備すべしと主張していた陸軍省は、東條陸相が田中作戦部長に口説かれてゴーサインを出してしまう。ところが蓋を開けてみると、人員50万人、馬15万頭の大増派となってしまったというのである。これは一体いかなるからくりかと言えば、なるほど師団として内地から増派されるのは2個師団だけなのだが、満州、朝鮮の14個師団を戦時定員に増加、砲兵隊などの軍直属部隊、後方兵站部隊が500隊近く、航空兵力も増強するというわけで、動員が完了すれば人員85万、馬22万の大兵力となるという次第。著者によれば「総括的の上奏がすんでいて、その細部の内容というのは参謀本部が決める権限をもっておる」からということになる。異議を唱えようものなら「統帥権干犯」だとののしられるのであろう。この時期、日本は中国に展開している兵力を約35万人削減して軍備を充実させる計画を立てていた(ノモンハン事件を受けてのこと)のに、逆に大兵力を満ソ国境に展開しようというのである。
7月上旬に動員が開始され、その約1ヶ月後に対ソ開戦計画が撤回されたわけだが、関東軍の側では「金など考えないで大いにやれ」「この際だから大いにやれ」という調子で動員に着手していたわけなので、著者たちはその後始末に追われることになる。「なにしろ、北満の各地で何十万トンという木炭を焼いている。木炭がなかったら北満の戦争はできないからである」といった具合だが、注文を取り消すにしてもキャンセル料が必要になるわけである。現地に到着してしまった兵員の宿舎も必要となる。関東軍が要求したのが当時の金額で21億*1、それを17億円に値切ったが、それでも関東軍の当時の経常費の1.7倍。著者による換算だと現在の9兆円(現在の国家予算の1割ほど)という金額になる。当面はやらないことが決まっている戦争準備のために膨大な国費が費やされたわけである。本来なら軍備の充実*2のために金が必要な時に。
それでも、ドイツ軍が順調に進撃を続け、条約違反の汚名を被ってでも対ソ開戦して勝ち目があったのなら、純軍事的には弁解可能だったかもしれない。では参謀本部はどのような作戦計画を立てていたのか。対独戦のためにソ連軍30個師団が半減し、航空兵力その他が3分の1になるのを8月上旬から中旬までに確認できたら8月下旬に攻撃を開始し、10月中旬には作戦完了と(防衛庁戦史部室の『戦史叢書』に依拠して)されている。著者はこれを読んで「唖然とした」とのことである。「これは実に驚くべき記録である」、と。日本の期待通り15個師団を超える兵員をソ連がわずか1ヶ月ほどの間に移動させてくれるという保証はない。仮にそれが実現したとして、40個師団に相当する兵員(85万)なら15個師団(ソ連軍の師団編成については承知していないが、20万を超える規模であることは間違いなかろう)を2ヶ月足らずで圧倒できたのか? ノモンハンで火力や戦車の圧倒的な格差を思い知らされたばかりである*3。本書の冒頭では当時の日本の兵器製造能力が(資材班員の経歴を活かして)詳細に紹介されているが、1940年3月の実績で言えば性能においてソ連軍の戦車にまったく歯が立たない軽戦車をたった5両つくっただけなのである。


著者の怒りは『戦史叢書 関東軍(2)』にも向けられる。「奇怪至極」の戦史だと言うのである。

 「参謀本部第一部長田中新一少将は独ソ開戦必至の見込が濃化した六月二日、急遽満州に赴き関東軍の戦備の実情を視察した。八月上旬に至り中央省部は情勢に鑑み年内対北武力行使を断念したのであるが、その連絡に関東軍司令部に赴いた田中第一部長は『率直明快』に関東軍の作戦準備が甚だ不備である旨を指摘し、今次の独ソ開戦の機会にこそ一挙に戦備を充実向上すべきであると述べた」というのである。
 これは甚だ奇妙な文脈である。作戦部長は六月二日から戦備の実情を視察して東京に帰り、北方の戦争をヤレヤレと推進し、五〇万の大兵力を送り込み、一七億円の戦備を行ったのではないか。その人が僅か一ヶ月余の八月二十日に「率直明快に作戦準備の不備を指摘し」と書くだけで、何の批判も加えていない。批判精神の全く無い戦史である。こんなものは役に立たない。
 さらにこの編者は、「この作戦部長の嘆きの声は、わが方の努力不足の故に非ず。恐るべきソ連の国力、軍事力に対する実感にほかならず」とわけのわからぬ提灯持ちのことを書いている。とんでもない。その相手が今ヒトラーに散々に攻撃されているのだ。その時に初めて「実感」としてソ連が強いと思ったというのだろうか。

著者の怒りはもっともである。対ソ開戦が中止されたのはドイツの対ソ戦が日本の期待したように展開しなかったからである。関東軍の戦争準備が2ヶ月の間に大幅に後退したからではない。もしドイツが勝ち続けていたとしたら、「作戦準備の不備」はそのままに対ソ戦に踏み切ったというのだろうか?
さらに同戦史が引用している稲田正純少将(当時第5軍参謀副長、ノモンハン当時大本営作戦課長)の回想記について(強調は原文)。

(…)こう書いてある。
 『七月十日関東軍司令部に顔を出すと、作戦参謀から『何をボヤボヤしているのですか』とやられた。今にも飛び出さんばかりの勢いである。』稲田少将にこうした応接をするのだから、関東軍の作戦主任参謀であろう。
 『数日前第五軍正面を視察したところ、大湿地を突破すべき数コの師団のために、僅か一条の、それも不十分な道路があるだけで、作戦など思いもよらないと考えられたので、その旨を述べたところ、同参謀は、『ナーニ、たなぼたですよ。ソ連の抵抗など問題ではない。とにかく行けばよいのデスヨ』と『一笑に付して』真面目な言い分を聞こうとしない」
とある。これは重大なことである。関特演とはこんな不真面目極まる参謀連中がやったことだったのだろうか。

日本軍は第二次上海事変〜南京攻略戦の際、クリーク地帯での進軍に大いに苦労したはずである。そもそも第一次上海事変の際にも予想外の苦戦をしていたのに、その教訓がまったく活かされていない。

*1:動員数も含めて数字や日付については他の文献で裏付ける必要が本来ならあるが、今回は『陸軍の反省』の紹介ということで手を抜いていることをご了解いただきたい。

*2:これにもオチがあって、ノモンハンの戦訓を活かすならなによりも装備の近代化が必要なはずだったのに、軍が要求したのは41個師団を65師団に増やすことだったというのである。

*3:ソ連側の戦術のまずさもあって犠牲者数でいえばソ連側の損害も大きかったのだが、装備の格差は明白であった。