「戻った捕虜 過酷な運命」

朝日新聞夕刊の連載、「ノモンハンの記憶 「事件」から70年」、12日(金曜日)掲載の第5回「戻った捕虜 過酷な運命」。
公刊戦史によれば停戦後に2回捕虜交換が行なわれ、日本には204名が戻ったとされている、とのことである。
モンゴル東部、スンベル村の郷土博物館に展示された日本語のチラシ。捕虜になった日本兵が日本軍将兵に投降を呼びかけた伝単の末尾に「宮澤」という名前が記されていた。

 「『宮澤』に該当する可能性があるのは、一人しかいません」。現代史家の秦郁彦さんは東京の自宅で、関東軍関係者からの聞き取りなどを記した古いノートをめくった。
 ノートの記述などによると、飛行第10戦隊の宮澤幸吉曹長が7月2日、スンバル村上空の空戦で墜落。長野県(中略)生まれ。捕虜交換で戻り、満州開拓団に入った――。
 教えてもらった出身地を訪ねると、山あいの民家に「宮澤」の表札があった。
 「幸吉は伯父です。飛行機乗りだったけど戦死したと聞いています」。世帯主の鉄二さん(51)が話してくれた。額縁から軍服姿の遺影を取り出して見せてくれると、遺影の裏に、黄ばんだ新聞紙があった。墜落の5日後の39年7月7日付の朝日新聞長野版。その頃、遺影を額縁に収めたのかもしれない。
 長野県によれば、戦死者などが載る公報原簿に宮澤幸吉の記録は存在せず、満州開拓団の引き揚げ者の報告書にも、名前はない。「宮澤」が幸吉さんかどうか不明のままだ。
 捕虜交換で戻った兵士らは旧陸軍の取調べを受けた。短銃を渡され、自殺を強要された将校もいたという。
 軍は39年9月30日付の通達で、元捕虜が軍法会議で無罪になっても、「厳重なる懲罰処分を行う」とし、処分後は「日本以外の地」で生活させるよう指示している。
 中山一さん(中略)は、ノモンハン事件の捕虜だったことを明らかにした元兵士だ。機関銃中隊の上等兵だったが、砲弾の破片を耳に受けて倒れ、戦場に残されてソ連軍に捕まった。
 04年に88歳で亡くなる前、10年ほどかけてチラシの裏に手記を書きつづけた。
 「私の判決は、重謹慎20日」「軍法会議並びに関東軍憲兵隊により、『ノモンハンの戦況または捕虜の件については、たとえ親兄弟といえども口外するな』と指導された」。結婚してソ連で暮らすよう迫られたが、「郷里の母に会いたい」と拒み続けて帰還できたと生前、家族に話していたという。
 現地に残ったままの捕虜もいたと言われ続けているが、その真相はわかっていない。
(後略)