『近衛文麿』

どのような観点から近衛の生涯に迫ろうとしたかはサブタイトルが的確に物語っている。「勇気、決断、責任感の欠除」という一般的なイメージが妥当するところもあることを認めつつ、著者はそうしたイメージがすでに戦前において形成されていたことに注目し、「現在多くの人が抱いている近衛イメージが戦前に持たれていたものと同じだというようなことでいいのだろうか」と、自らの問題意識を説明している。
家柄のよいポピュリストという近衛の特徴づけは(毛並みの良さでは格が違うとはいえ)小泉及びそれ以降の三世首相を思い浮かべるときたしかに時宜にかなった視点ではあろう。
ちょっと気になったところを2点ばかり。近衛も随行したパリ講和会議に関して、近衛から妻あての手紙に「日本人同士の対立、悪口の言い合い」のため「この会議を通じて日本の評判は大変悪かった」という趣旨の指摘があったことを引き、著者は次のように論じている(39ページ)。

 近代日本においてはエリート形成が平等主義的になされたので立身出世競争は非常に激しいものとなったが、主に出身母体ごとのグループに依拠しそれが行なわれていた。従って、こうした国際政治の場はそうした集団間の勢力拡張と戦果獲得の絶好の機会となったのである。ここで獲得した戦果が国内の勢力拡張戦に反映されていくのであるから。
 例えばイギリスにおけるジェントルマンのような一定の同じエリート階層の中からエリート形成が行なわれればこうした割拠主義は多少とも薄まると見てよいであろう。外交官と軍人といっても全く違った集団の出身者ではないから意識上の共通性が高く協調的な行動をとりやすくなるからである。(後略)

しかし講和会議日本代表の顔ぶれはといえば西園寺公望(公家の家系)とか牧野伸顕大久保利通の子、のち大久保の姻戚の養子)、伊集院彦吉(大久保の娘婿)だったりする。軍の方もまだ薩長閥が残っていた頃である*1。もう少し後の時期についてならともかく、「平等主義的」を理由とできるのかどうか疑問が残った。軍人の出身階層については広田照幸氏が当初の「経済的特権を失った旧特権身分層」からやがて「開発途上国型のモデルに近い、社会の中層部分と結びついたパターン」へと変化したと指摘しているが*2、この時期は少なくとも軍の上層部に限ればまだまだ「旧特権身分層」出身者によって占められていたのではないか。
もう一点。第一次近衛内閣の内政について、厚生省の創設を「最大の功績」としている点。近衛の学生時代に着目して「生存権」を重視する視点を持っていた、とする指摘は興味深いが(その妥当性の判断は素人らしく保留するとして)、「厚生省なしに後の日本の社会福祉制度の発達はなかったであろう」というのはちょっと性急なのではないか。「日本の社会福祉制度」の評価という問題ももちろんあるが*3、それをおいたとしても「そんな簡単なはなしではないのでは?」と思わざるを得ない。

*1:陸軍の「実役停年名簿」で氏名の右肩に出身府県名と氏族の族籍が記されなくなったのは大正14年、1925年からのことである、と大江志乃夫、『昭和の歴史 3 天皇の軍隊』、小学館文庫、125頁、にある。

*2:『陸軍将校の教育社会史』、世織書房。ただしこの本が手元に今ないので『現代史の対決』、文春文庫所収の秦郁彦氏の書評から孫引き。

*3:私は「社会福祉」ならぬ「会社福祉」だと思っている、ちなみに。