承前

さて、この「別館」でふだん扱っている範囲をやや逸脱することになるが、前エントリを書いている間に私の念頭に浮かんだものごとの一つは「改悛の情を示さぬ(として糾弾される)犯罪者」たち――最近で言えば附属池田小事件の宅間守が典型であり光市母子殺害事件の被告もまたその一人ということになろうか――である。というよりも彼らの背後にいる(と想定される)「改悛する犯罪者」たち、と言った方がよいかもしれない。「改悛の情を示さぬ犯罪者」を糾弾する側が彼ら個人の「内面」の暗黒を語るのに対して、彼らを弁護(ないし「理解」しようと)する側もまた彼らの個人史や器質的障害に言及することがある。前エントリでは「悔恨」が間主観的な場においてたち現われるものだと書いたが、極限例でいえば無人島に独り流れ着いても深い悔恨にたどりつく人もおりまた犠牲者の亡霊が眼前に現われようと平然としている人もいるだろうから、個人的な要因が問題とされうることは確かである。しかし「改悛する犯罪者」の悔恨が基本的には「取調室での検事とのやりとり」か「接見の際の弁護士とのやりとり」という極めて特殊な場において現われた(と称されている)ものである、ということに私たちはもう少し注意を払ってもよいのではないだろうか。もちろん、安易に「本物」と「ニセモノ」という区別を持ち込むことは慎むべきではあるが、検察が全プロセスの録画をかたくなに拒んでいる取調べプロセスにおいて現われるとされる「改悛の情」なるものを額面とおりに受けとるべきではないし、そこにおいて「改悛の情を示さなかった」とされることについても同様ではないのだろうか。


ここでの目的は宅間や光市事件の被告の「内面」を推しはかることではなく、「改悛の情を示さぬ」犯罪者への憤激の裏にあるこの社会の「改悛」観を問い直すことである。悔恨というのは個人の内面に「あるか、ないか」のいずれかである…といった素朴なモデルでも採用しない限り、重大事件の刑事被告人が持ちうる極めて限定された人間関係が彼らの示す「悔恨」を大きく制約しているであろうことは容易に想像がつくのではないだろうか。