感情の政治学

2月18日づけの一連のエントリにコメントしておられる「ヒロ」氏の発言がなかなか興味深いので。
まず第一に、この方は私が「後悔しないのはけしからんという事を言いたかったのだ」と考えたのだそうである。一連のエントリは(1)私自身、十分整理し切れていない問題を手探りで書いているためと、(2)事情があって公表していない情報ソースがあるためとで、たしかに論旨は追いにくいものではあろう。しかし少なくとも、次の二点が私の言わんとすることの柱になっていることくらいは、普通に読めばおわかりいただけるはずだと期待していたのである(現に、他の方はみなその二点を読みとっていただいているわけで)。

  • 「悔恨」は純粋に個人の「内面」の問題なのではなく、間主観的な場でたち現われるものなのであり、元将兵にはなしを聞いた側の問題をとりあげずして「悔恨がない」と言うのはおかしいのではないか?
  • 「けしからん」とかどうとかいう以前の問題として、(悔恨の念が薄いと評されることがしばしばある)旧日本軍将兵のなかに、言葉にされてこなかった悔恨の種子はあったのではないのか?

さらに続く「承前」というエントリでは「ここでの目的は(…)「改悛の情を示さぬ」犯罪者への憤激の裏にあるこの社会の「改悛」観を問い直すこと」だと書いておいたのである。ヒロ氏の方が勝手にご自身の関心によって私のエントリを裁断した結果として「後悔しないのはけしからんという事を言いたかったのだ」などという解釈がでてきたとしか考えられない。ま、ヒロ氏の思考のフレームワークについてはその後のコメントで明瞭になっているので、そういう誤読をしたくなった動機は理解できる。彼の頭の中には「元将兵の老人を罵るサヨク」という陳腐なイメージがあって、そのイメージに全てを回収したかったわけである。しかし私のみならず、Guttentag 氏や番組ホステスもまた「悔恨がみられないからけしからん」などとは言っていない。番組ホステスにとってはそれは「謎」だったのだし、Guttentag 氏にとっても「当惑」だったわけだが、二人は「なぜ?」に関心をもっていたのであって、(番組を聴いた方ならお分かりのように)インタビュー対象者を非難する発言などまったくしていない。最初のエントリでは「彼自身は「悪の凡庸さ」の現われとして納得しようとしているようだ」ともちゃんと付記しておいたのである。


ヒロ氏のコメントのロジックを明示的に展開すれば、「(1)元日本軍将兵は道徳的非難に値することなどしていないのだから、(2)悔恨など抱く理由はなく、(3)それゆえ悔恨など抱いてはいないが、(4)だからといって文句を言われる筋合いはない、といったところであろう。(1)の部分で私とは見解を異にしているのはもとより、一昨日のエントリについて言えば私は(3)が現実に照らして間違いなのではないか、と主張しているわけである。このような決定的な認識の違いを理解できずに(4)の部分で議論を吹っかけたつもりになられたのではなかなかはなしが通じないのも当然であろう。
さて、(1)〜(4)のうち(1)と(2)は直接的にはヒロ氏自身の評価であり、ヒロ氏が想定する歴史的な評価でもある、ということになろう。この(1)、(2)から(3)への移行が非常に単純なモデルに基づいて行なわれていることは、氏の次のようなコメントからも明らかである。

軍人なのですから「自国の為」の戦闘行為は恥じる要素は無いと思います。

〔原爆投下は〕アメリカ人の考えでは戦闘行為なのですから反省しないのも普通だという事です。

だが、こうした認識は戦場を経験した兵士の心理からあまりにも乖離している。マンハッタン計画に関わったアメリカ人の中にもその関与を後悔した人間が少なからずいるというのは現代史の常識だと思っていたのだが、人間を国籍という軸だけで分ける発想の前ではそうした事実は塗りつぶされてしまう。エノラ・ゲイ号の副機長だったロバート・ルイス大尉(当時)が、機内でつけていた記録に「いったい何人を殺してしまったのか。100年生きてもこの数分間を忘れられないだろう」などと書き残していたことも数年前に報道され、それなりに話題になったと記憶しているのだが、ヒロ氏のアンテナには引っかからなかったようである。太平洋戦線でアメリカの海兵隊員や陸軍の歩兵たちは、事実上無力化しながら壕や洞窟、ジャングルに籠って抗戦する日本兵を掃蕩する作戦を各地で行なったが、軍事的な必要性もあり国際法上も容認される(投降勧告はしているから)そうしたケースであっても、すでに抵抗力を失った人間を一方的に殺戮したことに対して悔恨を示す元米兵はいるのである。水も漏らさぬ法的手続きに則って行なわれる死刑を執行する刑務官だって、「法にのっとっているから、仕事だから、相手は犯罪者だから」といった理屈で自らの心を護りきれるとは限らない。それほどまでに、人を殺すという体験は一般に外傷的なものではないのか? とすれば、正当性があやうい、あるいは正当化の余地のない殺害についてはなおさらである。戦場で人を殺した兵士のなかに(その比率がどれくらいなのか、ということについては現状ではよくわからないが)それを外傷的なものとして体験した兵士が少なからずいるとするなら、赤の他人が「恥じる要素は無い」だの「反省しないのも普通」だのといって「否認」してみせてもなんの役にも立たないのである。


アメリカ人の考えでは戦闘行為なのですから反省しないのも普通だ」という氏の発想について、私はそもそも日本の感覚/アメリカの感覚と、感覚に国境で線をひくのがおかしいんじゃないですか?」とコメントしたのだが、それに対する返答は次のようなものだった。

●世界が一つの民族、一つの国であるなら確かに仰るとおりでしょう。ですが、現実問題として国や民族が違えば考え方も感覚も異なります。ですから、現時点では色々な考えがあるとしか言えません。

これが私のコメントに対する反論になってると考えることができるメンタリティというのはなかなか興味深い。なるほど(「民族」の実在性に関する議論をとりあえず封印するなら)世界はいろいろな「民族」や「国」に別れている。しかし人間はただ「民族」や「国」で分類されるだけではない。いまここで問題になっていることとの関連では、前線に出た人間と銃後にとどまった人間、高級指揮官や参謀と下級指揮官や兵士、歩兵と航空兵、都市住民と農村住民…はそれぞれ非常に異なった戦争体験をもったはずである。日本とアメリカを隔てる距離より、軍参謀と前線で這いずり回る二等兵とを隔てる距離の方が場合によっては遥かに大きいだろう。また「民族」と「国」の区別は必ずしも(というよりたいていの場合)一致しない。当時の朝鮮系日本人と日本系日本人は同じように戦争を体験しただろうか? この人は「色々な考えがあるとしか言えません」と主張しながら、しかしその「色々」としては国籍による区別しか認めないのである。そしてその「国籍」によって「悔恨を示すべきかどうか」は決められてしまうのである。ここには「人間」への配慮はない。あるのは「戦意」への配慮だけである。そのことは実は、ヒロ氏自身がはっきりと認めている。

そして、現場の兵士が戦ってくれなくなるような事は私には言えません。

「前線で闘うことを強いられる人がもう現われないようにすること」でも「前線で外傷的な体験をした元兵士に向き合うこと」でもなく、誰かに戦ってもらうことが肝心なのである。自分が戦うのではなく、他人に戦ってもらうことだ…というのも実に興味深いところではあるが。しかし、である。戦いの目的に自信があるのなら、人はなぜこう言わないのだろう? 「人を殺すことはたしかに外傷的な体験だ。戦って敵を殺せばあなた方は体だけでなく心に深い傷を負う可能性がある。しかしいまは戦うことが必要なのだ。なぜなら○○だからだ。この世界には、心に傷を負う危険を賭してでもやるべきことがあるのだ」、と。