改めて「ひとは悔恨をどう表現するのか?」について
私もこれをいまご覧いただいている人々の大部分も、人生において殺人、拷問、強姦といった加害体験を持っていないし、運が悪くない限り今後も持たずにすむ可能性は低くない。もちろんそれは私(たち)が卑小な悪事と無縁だということを意味しないが、ここで問題にしているような水準で「悔恨を示す」ことを社会から要求される立場に立ったことはないし、また私(たちの大部分)はそうした水準で誰かが「悔恨を示す」ことを個人的に要求する立場に立ったこともないわけである。なにが言いたいかといえば、「自分が元日本兵であって Bill Guttentag のインタビューを受けたとして、どのような態度で証言すれば彼の期待する「悔恨」を示したことになるのか」が、実はよくわからない、ということなのである。言い換えれば、加害体験を持つ人間に自分が聞き取り調査をやってみたとして、「ああこの人は悔恨を抱いているのだな/悔恨なんてないんだな」といった判断を誤りなく行なう自信がない、ということでもある。もともと外傷的な体験*1を持つ人々は、他者がそれを理解してくれないのではないかという深い疑念をもち、そうした疑念の前で沈黙を選ぶか、疑念を盾に聞き手を試しながらはなしをするものではないだろうか。そのような状況で、誰にでもわかるかたちで悔恨を表現できるのはむしろ限られた人々だと考えた方が実態に即しているのではないだろうか。
ここで視点を180度変えてみると、「赦し」の表現についても同じことが言えるのではないか。死の直前まで虐待されたような人々、家族を殺された人々の声を聞いたときなにをもって私たちは「ああ、彼(女)は赦している/赦していない」と間違いなく判断しうるのだろうか。「悔恨」同様「赦し」もまた間主観的なものだとすると、被害者や遺族の「内面」に赦しが存在する/存在しないといった素朴な実在論もまた成立しないのであり、「彼(女)は赦している/赦していない」という判断はその声を聞く自分自身が何を問うたかと無関係には下し得ない。こうして、大沼保昭氏の『「慰安婦」問題とは何だったのか』(中公新書)を一つの契機としてずるずると考えている問題にもどってきたわけだ。この点についてもいくつか調べたりご教示をいただいたりしたことがあるのでまとめてみたのだが、その前に沖縄戦についての中間的なまとめという宿題にもとりくまねば…
*1:私は殺人を強要される、という体験も多くの場合外傷的な体験であろうと考えている。