田中利幸、『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』、大月書店

連合国のうち欧米諸国の捕虜に対する虐待・残虐行為としては泰緬鉄道建設のための強制労働、バターン死の行進、九大医学部生体解剖事件など広く知られているものもある一方、関係者以外にはほとんど知られずに終わっているものもある。本書が扱っているのは後者に属する、ボルネオ島サンダカン捕虜収容所に収容されたオーストラリア軍、イギリス軍将兵の体験である。このようなブログを運営していると大抵のことには驚かないようになるのだが、本書で扱われている事例は想像を絶する。1943年9月の時点で約2500名いた捕虜のうち、戦後まで生き延びたのがわずか6名だったというのである。あまりにも生存者が少なく、かつあまりにも過酷な体験であったため、かえって知られることがなかったと言うわけである。上のエントリでとりあげた『現代歴史学と戦争責任』で吉田裕が紹介している(98-9頁)ことであるが、ドイツ軍の捕虜となった英米将兵の死亡率が4%であるのに対して、日本軍の捕虜となった両軍捕虜の死亡率は27%にも達しており、この数字はシベリア抑留の犠牲者に関するソ連側の公式発表(死亡率8.4%)をはるかに上回るのははもとより、研究者によるより大きな死亡率推定に匹敵する数字である。ところが、サンダカン収容所の場合には生存率が1%にも満たないわけで、これはもはや捕虜収容所とは呼べまい。「絶滅収容所」ということばが脳裏に浮かぶ。このエントリも後ほど追記。


8日追記
書きかけのエントリであるにもかかわらずすでにいくつもブクマしていただいてますが、やはり生存率0.24%というのは衝撃的ですよね。本書では泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜の生存率が80%であったことが紹介されています。死亡者1万2千という絶対数ではこちらが大きく上回るものの、それとは別種の衝撃を0.24%という数字には感じます。オーストラリアが最後まで天皇の戦犯としての訴追にこだわったのも納得というものです(もっとも、各国が行なったB級戦犯裁判を比較するとオーストラリアの判決は意外に寛容で、死刑判決のうちの半数以上が上位機関の審査で減刑されているのですが…)。


さて、本書の第1章、第2章が上で紹介したサンダカン捕虜収容所事件を扱っており、第3章では豪州軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件など戦場における性暴力が、第4章では人肉食事件が扱われている。ところで、本書の特徴として、これらの事例をその「特殊性」と「普遍性」の両方からながめること、言い換えれば特殊性から普遍性を導き出す作業の重要性が強調されていること、をあげることが出来る。一つには、旧日本軍の戦争犯罪に対する告発が「日本特殊論」に回収されてしまうことへの危惧がある*1。もう一つ、「特殊性」からきちんと「普遍性」を導出する作業をしておかねば、旧日本軍免罪のための相対化論、「似非普遍論」に対抗できない、というのである。これは非常に重要な視点であろう。
本書は現在新品では入手不可能なようで、Amazonの「マーケットプレイス」ではなんと9,450円という価格がついているので、少々詳しく内容を紹介したい。


本書によれば、サンダカン収容所の、あるいはボルネオ島の各収容所における捕虜の扱いは、当初はかなり人道的だったようである。労働に対して賃金が支払われ、売店の運営も許され、監視も緩やかだったという。これには、当時まだ日本にとって戦況が逼迫していなかったこととともに、ボルネオ捕虜収容所の最高責任者、菅辰次大佐(敗戦後自殺)のパーソナリティーが影響しているようである。事態が大きく変わった直接のきっかけは、捕虜の逃亡事件、および現地協力者と連絡をとり連合軍の上陸時に呼応して反乱を起こす計画が露見したこと(サンダカン事件)であった。そのような出来事があれば捕虜への監視が厳しくなることは当然といえようが、日本と連合国との間での捕虜観の違いが事態をより悪化させた。日本軍は軍用飛行場の建設に捕虜を従事させるなど、当初からジュネーヴ条約に違反する収容所運営をしていたわけだが、逃亡を試みるのを捕虜の義務とするオーストラリア軍将兵の考えを、「生きて虜囚の辱めを受けず」の日本軍が理解できるはずもない。
第二に、サンダカン収容所の監視員が台湾から徴用された軍属だったという点。収容所員の間でも明確に差別されていた(食事の量も違っていたという)監視員たちの鬱積する不満が捕虜に向けて晴らされる、という「虐待の乗数効果」が指摘されている。著者の分析にはないが、日本人軍人からみれば「汚れ仕事」を台湾人軍属に押し付けることができたこともまた、虐待を苛烈なものとする要因になったのではないだろうか。
第三に戦況の悪化。食事の量や医薬品の供与も極端に減らされるようになるが、必ずしも物資が逼迫していたわけではなく、連合国の上陸に備えて出し惜しみしていた、ということのようである。また著者は、ある段階から虐待の露見を恐れて証拠ともども捕虜を抹殺してしまおうという計画が出来上がっていたのではないか、と推理している。興味深いのは、戦況が悪化し不安や無力感を抱く日本軍将兵が、一時的に「自己の敵に対する明確な支配力」を確認するために拷問や虐待を行なったのではないか、という分析。客観的な戦況が悪くなればなるほど、虐待が激しくなる理由としては納得のいくものである。後にオーストラリア軍がヴェトナムで展開した残虐行為についても同様の分析が可能であることが指摘されている。
連合軍の反攻に伴い、収容所から島の反対側へと移送されることになった捕虜たちは、飢えや病気のため、また行進から落伍すると銃殺されるなどして次々に死亡していった。この行進がどれほど苛烈であったかは、雨季が終わる前に出発した最初のグループ470名の移送の際には、監視に当たった日本兵の間にも大量の死者が出ていることが示している。結局、ジャングルに逃げ込んで運良く連合国軍に救助された6名だけが生き延びることができた。


6名の生存者の1人は、監視員から「捕虜全員処分の計画があるためできるだけ早く逃亡するように」という忠告を受け、逃亡を実行している。このエピソードも、台湾人監視員が置かれていた微妙な立場を物語っていると言えよう。監視員の1人は、「薪採取班」の監視員として、上官の目の届かないところで捕虜と接触を持つことができ、しかも英語がかなり堪能であった。そのため、捕虜にはたっぷりと休憩時間を与え、自費で買い求めた食糧を捕虜に振舞っている。後に捕虜の銃殺に加わったため戦後の戦犯裁判で懲役12年の刑を受けたが、生存者の嘆願により2年に減刑されたという。この監視員のパーソナリティーについてこれ以上知る手がかりはないが、上官を気にせずにコミュニケーションをとれたという事情が大きく関わっているであろうことは確実である。逆に言えば、「上官の命令は絶対」とする日本軍の体質が、生来残虐というわけではない人々に残虐行為を行なわせたことがわかる。
もっとも、程度の差はあれ、上官への服従が要求されるのはどの軍隊でも同じである(程度の差は時として無視できない問題になるのは当然として)。これに関連して興味深いのは、日本軍が捕虜に対して行なったジュネーヴ条約違反の軍律裁判を、戦後の戦犯裁判が不問に付しているという事実である。それだけでなく、敗戦後に日本軍が捕虜収容所で行なった不当な軍律裁判を容認し、処刑のために銃器まで貸し出しているという。第二次世界大戦後の戦犯裁判は、理念としては「上官命令抗弁」を否定し個人の責任を強く問うたわけだが、連合軍自身もその論理を貫徹することはできなかった、ということである。


第3章のテーマは「女性にとって戦争がもっている「普遍的な本質」とは何かを探る」ことである、とされる。事例としてまずとりあげられるのはインドネシア・バンカ島での豪従軍看護婦虐殺や、慰安婦強要(未遂)事件、および他地域での慰安所であるが、ドイツ軍や連合国軍による性暴力の事例も多く紹介され、「男性支配文化」そのものを問題にする視点が強調されている。上官には支配される立場でありながら敵に対しては支配力を発揮しなければならない、という矛盾した立場に置かれた下級兵士にとって、強姦は敵への支配力を自己確認するうってつけの手段であり、輪姦は仲間に対して自らの支配力を誇示する手段であるがゆえに、戦争において強姦は(どれほど慰安所を設置しようと)避けることができない。と同時に、戦場に現われる女性は「男の組織」に濫入した「いてはならないはずの存在」であるというイデオロギーと、女性が(従軍看護婦として、また戦場となった土地の住民として)兵士の目の前に現われてくることは避けられないという現実との矛盾。この矛盾を解決するために女性を抹殺するという行動が発生するのではないか、と著者は分析している*2


興味深かったのは、41年12月25日に、香港に侵攻した日本軍がイギリス人看護婦を強姦したという報道がほぼリアルタイムで、後に虐殺の犠牲者となる看護婦たちが当時いたシンガポールにも伝わっていた、ということである。第二次世界大戦で、日本やドイツのみならず連合国側にも多大な残虐行為が見られたことについては、ジョン・ダワーが指摘する「人種偏見」という要因を無視することはできない(そして「民族」「人種」を戦争の賭金として宣伝したのが日本とドイツだったことも…)。しかしもう一方で、メディアやプロパガンダ技術の発達というのも重要な要因ではないかと思われる。『戦争における「人殺し」の心理学』においてグロスマンが指摘しているのは、兵士といえども殺人に対しては極めて大きな抵抗を抱いている、という事実である。にもかかわらず、同じ兵士たちが、ためらわずに、時には嬉々として残虐行為に加わるためには敵を「非人間化」することが必要となるが、その「非人間化」には戦時プロパガンダが大きく関わっているからである。自軍兵士が敵軍兵士を殺すことを心理的に容易にするために憎悪を煽ることで残虐行為を生み、それが相手のプロパガンダに利用されて相手側にも残虐行為を生み、それがまた自軍兵士の憎悪をかきたてさらなる残虐行為を生む…というスパイラル。


第4章は人肉食事件に関してオーストラリア軍が記録した数多くの資料を紹介し、(オーストラリア人ウェッブが裁判長をつとめる)東京裁判でなぜこれらが問題にされなかったか? が問われる。地域はニューギニア、犠牲になったのはオーストラリア軍将兵、日本軍が労務者として連れてきていたアジア人捕虜、現地住民、そして日本軍兵士である(もちろん、最も詳しく調査されているのは最初の類型)。資料から著者が結論づけているのは、人肉食が兵士個人の突発的な行動というより、部隊単位での組織的な行動だった、ということである。また、元資料こそ確認されていないものの、豪州軍が捕獲して英文に翻訳された命令書は人肉食がたびたびの注意にもかかわらず蔓延していることを指摘し、人肉(敵のそれは除外する)を人肉として知りつつ食したる者」は死刑にせよ、と命じている(強調は原文では傍点)。
しかし著者も指摘するように、やはり責任を負うべきは地理や風土についてのろくな情報もないまま作戦を立て、部隊をジャングルに置き去りにした軍中央であろう。なにしろ東部ニューギニア作戦に投入された日本軍15万以上の敗戦時の生存者はわずか6%にすぎなかった、というのであるから。


この問題が東京裁判でとりあげられなかった理由については、犠牲者のプライバシーや近親者への配慮という、ちょっと肩透かしを食らったような印象を受ける分析がなされている。しかしそれ以上に興味深いのは、帰還兵の経験談を通じて日本軍の人肉食という事実だけが伝えられ、その背景にある軍中央の無責任さは知られることがなかったため、日本人に対する偏見を強めてしまったのではないか? という指摘である。もう一つは、日本軍指導者が日本国民に対して犯した犯罪を明らかにする機会が奪われてしまった、という指摘である。特に後者は、日本人が東京裁判をどう受容すべきかという問題にも関わる、重要な論点であろう。
なお本題からはややそれるものの興味深かった逸話として、オーストラリア政府が人肉食事件に関する情報公開を(新兵の士気低下を恐れて)ためらっているのに対して、オーストラリア軍は自軍兵士の士気に自信をもっており、検閲に反対していること。反対するもう一つの理由として、新聞報道ではなく口コミで伝わった場合「多分に誇張される傾向」があることを指摘している。軍としては、敵愾心が亢進しすぎて豪州軍将兵の残虐行為がいっそう悪化してしまうことに懸念を持っていたと解釈することができる。

*1:私がこのブログで「本質主義」批判として述べてきたことと重なりあうところが多いと思われる

*2:強姦が「他の動物には見られない、人間だけに見られる特殊な行為」であるとする主張(203頁)はジェンダー論や社会生物学において、あるいはジェンダー論と社会生物学との間で、激しく議論の対象となっている問題である。しかしこの点についても著者が戦争犯罪に対してとっている立場、すなわち「特殊性」と「普遍性」の二つの視点を意識しておくことが重要であると思われる。「人間以外の動物におけるレイプ」といったメタファーの有効性は厳しく吟味されねばならないが、他方で安易な「人間特殊論」に陥ってしまうと生物学から学べるものも学べなくなってしまう。