Fisrt Into Nagasaki、その3

ひきつづき『ファースト・イントゥ・ナガサキ』について。過去のエントリは次の通り。
検閲された長崎潜入ルポ、米で刊行
Fisrt Into Nagasaki、ファーストインプレッション
First Into Nagasaki、セカンドインプレッション


ここでジョージ・ウェラー記者の足取りをまとめておくと、45年の9月6日に長崎入り、三菱の軍需工場で働かされていた連合軍捕虜、病院などを取材した後10日にいったん長崎を離れ、11日からは大牟田の捕虜収容所(Camp#17)を取材、9月17日から飯塚の捕虜収容所(Camp#7)を取材、20日に飯塚から長崎に戻って取材を続けている。現在、大牟田で取材をはじめたあたりまで読んだところ。
B級戦犯裁判を扱った文献でたいてい扱われている問題の一つに、赤十字から捕虜のために送られた物資(食料や医薬品、毛布)を日本の収容所(収容所長、所員)が横領したとされるものがある。本書でも同様な告発が捕虜たちからなされている。日本軍将兵国際法に関する知識、捕虜観、さらに同様の告発があちこちで見られることなどを考えると、少なくともすべてが事実無根ということは考えにくい。
また、一層劣悪な環境におかれていた中国人捕虜(「特殊工人」かもしれない)の収容所についても記録されている。アメリカ人医師のはなしとして、1,236人いた捕虜のうち300人が日本到着までに死亡し、2年間で70人が収容所員に殺害され、120人が病死、生存者は546人、50人が重態とある(数字があわないが、このアメリカ人医師も正確な情報は把握していなかったのだろう)。