『「BC級裁判」を読む』その3

本書では過去にこのブログでとりあげた事例もいくつかとりあげられている。例えば「武士道裁判」について、当時の新聞にも「武士道裁判」という表現が「デカデカと」出ていたけれども裁判の争点との関連は薄く、「私は裁判記録を読んで、中村さん〔中村孝也・元帝大教授〕の弁論はどう考えても無理があるなと思いました」(井上、246ページ)、「裁判に提出された中村さんの「武士道の再検討」という弁明書がありますが、これは今読んでも弁護にならないと思いますね」(半藤、同所)と厳しい評価が下されている。また「日本の場合は兵隊がどこで死のうが知ったこっちゃないというところがある」のに対して「わたくしはこの事件で一番驚いたのは、「アメリカ政府というのは兵隊に対して本当に責任を持っているんだな」ということでした。戦後にアメリカ軍がこの日吉村にわざわざ調べに行くんですよ」(半藤、245ページ)という発言は、日米間の戦争を知るうえで重要なポイントの一つを突いていると思われる(米軍が自軍将兵の命を大切にするが故に敵に大きな犠牲を強いる、という側面も忘れるわけにはいかないが)。
また約2500人のオーストラリア人捕虜のうち生存者がわずか6人だったというサンダカン捕虜収容所事件はやはり本書の4人にも強い印象を残したようで、「すさまじいね、これは。なんでこんなことになったのか」「何だかだんだん憂鬱になってくる」(半藤、116、119ページ)、「どうしてこういう愚劣なことを考えるのか」「向こうもあきれたでしょう。日本軍っていうのは何なんだろうとばかばかしくなったと思うんです」(秦、119、121ページ)などと、厳しい言葉が並んでいる。
なおスマラン事件について、陸軍中央が慰安所を閉鎖させた理由は実は「海外放送でこの慰安所のことを盛んに非難していて、軍がそれを察知して「これはまずい」ということで慌ててやめさせた」と証言している元兵士(裁判で通訳を務めた)がいる、と紹介されている(194ページ)。自発的に閉鎖させたというのが軍の弁護材料とされてきただけに、気になる証言である。


4人の間で見解が分かれているところももちろんあるが、その一つは米軍の戦略爆撃と人種差別との関係。秦氏は日本に原爆を投下したのは「日本人にならやってもいい」という人種差別があったからだ、という主張には以前から否定的だったが、ここでも「あれだけ計画的にやった大規模な戦争ですから、わたしは人種論的要素というのはあまりなかったと思います」(363ページ)と他の3人に反論し、ジョン・ダワーについても「人種論の落とし穴に落ちた人は大抵のことがそれで説明できるから、そこからなかなか抜け出せないんです。わたしは歴史学者としては邪道だと思う」(同所)と評している。「人種論」が一種の陰謀論として機能することがあるのは確かだと思うのでその点への警戒はなるほど必要だろう。他方で重慶爆撃について秦氏は「その上、日本人は中国人を見下していたとなると、これはまた別の人種論の話になるわけです。白人の捕虜に対しては捕虜収容所をつくって、それなりに配慮をしているわけですが、中国では捕虜収容所をつくらないんですから」(366ページ)と発言しており、ここは「また別の人種論」にも懐疑的だということなのか、具体的な根拠があるなら構わないということなのか、ちょっと曖昧。


最後に、この手の人物に噛み締めてほしい秦氏の発言を引用しておく*1

秦 全体主義国家と民主主義国家のどこで違いが出てくるかというと、民主主義国家では言論の自由がありますから、自国の軍隊といえどもひどいことをしたら、自国民の中から批判の声が出てくるんです。
 とくに女性の意見が英米では影響力が大きい。たとえば慰安所を設置することについて日本の女性は発言しないけれども、英米軍の現地司令官が兵隊の福利厚生で慰安所をつくったなんていうとすぐ通報が行くんですよ。従軍牧師、上院議員や女性団体に突き上げられて、すぐ閉鎖しろという中央の指令が行く。
 いわば後方における市民的常識のようなものが一つの抑止力になっているんですが、それがまったくない国というのは人間の獣性が幾らでも発揮されるところがありますね。
(42ページ)

*1:人間の暴力、特に組織的な暴力を「獣性」の発露として理解することには同意できないが。