『「BC級裁判」を読む』その2

この本が日経から出ている(ベースになった連載も日経紙上)というのは少なからぬ意義をもつと思うし広く読まれることを祈りたいが、他方で異論を唱えたいところももちろんある。
例えばスマラン事件の裁判について、被害者らと被告人らとの証言が対立していることを指摘し、その原因として「この事件は双方にとって不名誉なものであるため」に証言にウソや誇張があるのではないか、と推測している点(156ページ)。被害者自身が当時(あるいはそれ以降も)「不名誉」と考えたということはあり得るし、裁判のオランダ側関係者が「オランダにとっても不名誉」と考えたということだってあり得るだろうが、このようなパースペクティヴの限定なしに「双方にとって不名誉」すなわち被害者にとって「不名誉」な事件であると記述してしまうことは問題だ。被害者に「不名誉だ」と思わせることも性暴力の一部であるという認識が不十分なのではないか、と思えてくる。
また南京事件の犠牲者数に関連して、「日本の戦後何十年の間、南京虐殺の数の論争は全くエネルギーのロスみたいなものですよね」(保阪、266ページ)、「本当にロスでしたね。この百人斬りだってロスですよ」(半藤、同所)という発言があるのだが、犠牲者数を最大の争点とする「論争」があったからこそ発掘・公表された資料も少なくないのであって、むしろ「エネルギーのロス」などと矮小化しようとする態度こそが「論争」に注ぎ込まれた労力を「ロス」にしてしまうのではないだろうか。
(ただし好意的に解釈するなら、彼らは南京事件の「質」に関してはそのひどさを旧軍人から繰り返し聞いているが故に、「数」は二次的な問題でしかないと考えている、という側面もあるのかもしれない。「(……)南京であれだけ悪いことをしておいて、裁判にかけられたのはこの少尉二人プラス田中軍吉と第六師団長の谷寿夫だけでしょう」(秦、263ページ)、「南京に行った人から何人も話を聞いているんですが、聞いていてつらいですね。彼らはかなり残酷な話をしますよ」(保阪、266ページ)、「柳川〔第10軍司令官〕は敬神家だといわれてますが、とんでもない。敬神どころか残虐非道な男なんです」(秦、68ページ)、「ある将校が「揚子江が血で真っ赤になったからなあ」なんて言いながら、二、三の話をしましたけどね」(保阪、69ページ)などの発言がある。そのような意味で「数の論争は意味がない」というのであればこれはよく理解できる。)