「事実であろうと、なかろうと」

サブタイトルは「事実に対するシニシズム」 >b:id:gouk
cf. http://b.hatena.ne.jp/gouk/20100126 , http://b.hatena.ne.jp/gouk/20100127 , http://gattee.net/talk/201001/201001post-89.html


まずはじめに。私たちは通常ひとの言うことをいちいち眉に唾つけるような態度で聞くわけではないし、また関心事は人それぞれ、同じひとでも文脈によりそれぞれであるわけだから、「ついでに国民のほうは「隣の国がうるせーで、あの死んだにーさんたちが集まってる神社はなかったことにすべ」とゆいだした」だとか、“ゴボウを食べさせただけで死刑になった日本兵がいる”といった記述をついついスルーしてしまうことがあるのはまあやむを得ないことであります。
そうはいっても、特に“ゴボウを食べさせただけで死刑になった日本兵がいる”を軽く流しちゃったひとには考えてもらいたいのです。誰も殺されてない事件で死刑になる、というはなしに疑問を持たなかったのはなぜか? と。BC級戦犯裁判に対する不満はほぼリアルタイムでも語られていたようですが、特に講和後には元戦犯たちの言い分がどっと言論界に出てきたわけです(これに対して、裁いた側の主張はほとんど紹介されることがなかったと思います)。BC級戦犯裁判が、主催者たちが自称した建前に比べればひどい裁判だったことは確かです。しかし戦後の日本ではそうした側面ばかりが記憶されることで、BC級戦犯裁判のほとんどのケースではそれに対応する非戦闘員の殺害、捕虜の虐待や殺害、ゲリラの不法殺害といった日本軍による残虐行為が実際に存在したのだ、という歴史認識が阻害されてきたのも事実でしょう。さらに、東京裁判を含む戦犯裁判の法的な位置づけは、日本軍が大戦中に自国内や占領地において行った軍律裁判、軍法会議などとさして変わらないということにも留意する必要があります。そして捕虜やスパイ容疑者に対する日本軍の裁判がどうだったかと言えば、弁護人をつけないなど連合国による裁判にもましてひどかったのです。この点は、BC級戦犯裁判で弁護人を努めた日本人のなかにも認めるひとがいます(林博史、『BC級戦犯裁判』、岩波新書、181ページ)。さらに日本軍の場合、南京事件が代表するように形式的な裁判すら行わない恣意的な処刑が蔓延していました(この点は秦郁彦氏が、連合国側がなにはともあれ裁判という形式をとったこととの対比で批判しているところです)。同胞たる日本人に対しても法的手続きを経ない恣意的な処刑が行われていたことは、沖縄戦の歴史が明らかにしています。全般的な傾向を比較するなら、連合国による戦犯裁判の方が日本軍による裁判(ないし裁判なしの処刑)よりは有意に「マシ」だったことは否定できないでしょう。
要するに、日本では実態を踏まえないBC級戦犯裁判批判が蔓延しており、それが日本軍の戦争犯罪を相対化する口実に使われてきたこと、ガメ氏のエントリがこのような極めて日本的なBC戦犯裁判観を前提しかつそれを助長するものであること、この点を改めて指摘しておきたいと思います。


さて、いよいよ本題です。
gouk 氏の主張の一つは、“ガメ氏の言いたいことは誤解が生む悲劇、ってことなんだから、細かな事実関係なんてどーでもいいじゃん、そんなのちくちくつつく方がおかしい”といった具合に要約できるでしょう。しかし私にいわせれば、これは「事実に対するシニシズム」以外のなにものでもない。そもそもあなたは「ゴボウ食べさせただけで死刑」を事実だと思ったのか? 疑問は抱いたのか? 嘘だと思いつつ「ええ話や」と思ったのか? 「誤解が生む悲劇」についての議論が有意味なものであるためには、まずもってその「悲劇」に関する記述が事実であることは必要でないのか? フィクションをベースに「誤解が生む悲劇」を論じるならそれはそれでいいが、その場合はそれがフィクションであることは明示されているべきではないのか? 事実なんてどーでもいいんだ、俺の感動こそが大事なのだ! とでも言うつもりか? 現代の日本では、死刑判決を下す基準をめぐってリアルな(=具体的な被告人の命運を左右する)議論が行われているわけである。そのような社会の住人として、ただただゴボウを食わせただけで死刑になった人間がいるというのが本当かどうか、これっぽっちも関心をもたないのだろうか?
「事実に対するシニシズム」を理論的に洗練すれば、そこに現れるのはあずまんのような腐れポモ保守である。あるいは次のような例を挙げてもよい。
http://sniper.jp/008sniper/0084review/post_1045.php
http://sniper.jp/008sniper/0084review/post_1044.php
伝え聞くところによればあずまんと宇野クンの間にはそこそこ確執があるようだが、それでもなお「南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、好きなほうを信じればよい」といった認識では一致してしまっているわけである。しかし「南京大虐殺が捏造か実在か、好きなほうを信じればよい」と言うのであれば、「広島原爆が捏造が実在か、好きな方を信じればよい」と言わねばならないし、「戦死した日本軍将兵靖国にいるというのが捏造か実在か、好きな方を信じればよい」と言わねばならないし、「ガメ氏のエントリが悲しい誤解についてのものなのか、悪質なプロパガンダなのか、好きなほうを信じればよい」と言わねばならないし、「ガメ氏の母語が英語だというのがハッタリか真実か、好きなほうを信じればよい」と言わねばならないはずである。しかしgouk 氏は自分が信じたい「物語」についてはそれを全面的に尊重することを要求していながら、自分が信じたくない「物語」については平気で踏みにじっているのである。


もう一つの論点、「死者への感謝」云々という点についてはさらに稿を改めることにするが、さしあたりは以下を参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100127/p1
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060904