「悔恨」はどのように表現されるのか

ちょうど一ヶ月ほど前に放送された、Bill Guttentag 氏出演のラジオ番組でのやりとりで、ちょっと印象に残ったところがあった(14分45秒あたりから)。映画を観た司会者が、インタビュー対象の元日本兵が「非常に気軽に casually」話しているようにみえた点が興味深かったと言い、彼らには悔恨 remorse があるのだろうか? と問うたのである。Guttentag 氏はこれに対してインタビュー対象者に後悔 regret の念が稀薄であったという自身の印象を語り、「人生の終りを迎えて深く後悔してインタビューを受ける」元兵士を予期していたのに意外であった、と告白している(彼自身は「悪の凡庸さ」の現われとして納得しようとしているようだ)。このような認識は外国人に特有のものではなく、以前に紹介したように野田正彰氏の『戦争と罪責』(岩波書店)の大きな柱の一つとなっている。だがその前提の一つとなっている国府陸軍病院の「病床日誌」(カルテ)の分析に関して、清水寛氏らの研究が相当異なる結論を導き出していることも以前に紹介したとおり。表向きの強気な態度の背後に深い罪責感を隠していた元兵士の例なども保阪正康氏が紹介している。


Guttentag 氏らがインタビューしたのは、南京攻略戦に従軍した将兵のうちのごくごく一部に過ぎない。だがたしかに「悔恨」や「後悔」「罪責感」といった感情をあらわにすることなしに加害体験について証言する元将兵の映像には私自身も触れたことがあるので、感情表現の文化差には単純に還元できない問題がここにあるのはたしかである。
他方で「悔恨」それ自体は(さしあたり「悔恨それ自体」について語るという方便を使えば、のはなしだが)もとより目に見えるものではない。それは具体的なやりとりを通じて間主観的に読みとられることによってのみ「ある」と言われるような類いの存在者なのであるから、目撃者が「悔恨」を見なかったからといってそこに「悔恨」はなかった、と言ってしまうこともできないはずである。


もちろん、悔恨や罪責感に直面せずやり過ごすことを元将兵にとって容易にする客観的な条件、というのはいくつも存在する。「戦争だったから」「命令されたから」というのはそうした条件としては日本に限らぬ普遍的なものであろうし、敗戦国として部分的にとはいえ戦犯裁判で責任者が処罰されている、ということも「もう済んだこと」という合理化を容易にするだろう。しかし悔恨をやり過ごそうとするのは悔恨が「あり」、本人もそれに気づいていればこそである。一方でグロスマンらの「戦争の心理学」に関する研究、他方でごく部分的かつ間接的にではあるが従軍体験を「読んだ」経験から考えると、加害体験を持つ兵士の多くに悔恨がない、というのはかなり無理のある仮説であるように思えてくる。証言者の語ることは証言者の内面の反映ではなく、聞き手の問いかけに対する証言者の反応なのであって、証言者に「悔恨がない」ように見えるとすれば、聞き手がなにをどう尋ねたのか/尋ねなかったのかもまた問い直しの対象にされねばならなかったはずである。