政治に関係ない「終戦記念日」なんて・・・

東京新聞TOKYO Web 2009年8月11日 「首相、靖国参拝見送りへ 終戦記念日『政治から遠くに』

 麻生太郎首相は十日夜、終戦記念日の十五日に靖国神社を参拝するかについて「国家のために尊い命をささげた人たちを政争の具にするのは間違っている。政治やマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきだ」と述べ、見送る意向を示唆した。官邸で記者団の質問に答えた。
(後略)

靖国神社(への首相の参拝)が政治から遠いところにはありえないこと*1−−そして「戦争とは政治の延長」というフレーズをこよなく愛する“現実主義者”の方々は戦没者の慰霊・追悼もまた「政治の延長」であることに諸手をあげて賛成してくれることと思うが−−をひとまずおくとしても、近年の日本において靖国神社からもっとも多くの政治的利得を得た人間とは小泉純一郎であり、そして郵政選挙で獲得した議席に支えられた麻生内閣もまたその政治的利得の余録にあずかったわけである。この点への(自己)批判抜きに殊勝そうなことを言われても「はい、そうですね」とは言い難い。もっとも、現時点では(産経新聞が金切り声で叫ぶ主張には反して)靖国参拝をしたところで政治的得点にはならず、しかし(小泉の参拝によってコアな靖国支持派の期待水準は上がっているので)参拝しないことによる失点は無視できない*2、という判断がこの発言の背景にあるのだとすると、まあこう言うより他に手はないのだろうと理解はできるが。


録画しておいたシリーズ「BS世界のドキュメンタリー」の一本、「私の戦争は終わっていない〜米陸軍元少佐 心の軌跡〜」を見た。リトル・ビッグホーンでの大敗北とその報復としてのウーンデッド・ニーの大虐殺で有名な騎兵第7連隊に所属して太平洋戦争、朝鮮戦争ヴェトナム戦争に従軍した米軍の元将校が自身の罪責感と向き合う旅、といった紹介がされている。
朝鮮戦争に関しては、米軍が非戦闘員を組織的に(命令文書が残されている)殺害した事例が紹介されるのだが、その理由が「北朝鮮軍の兵士が紛れ込んでいるかもしれないから」。非戦闘員の殺害における代表的な動機の一つと言えよう。そして公に語られない戦争犯罪の罪責感は現場にいた将兵に押しつけられてしまう・・・。
スナッフィー・グレイ元少佐自身がもっともこだわっているのは、軍事顧問としての任務で移住させ協力者にしたモン族(イーストウッドの『グラントリノ』にも登場したラオス少数民族)がヴェトコンに皆殺しにされた事件なのだが、彼は難民としてアメリカに渡ったモン族のコミュニティーを訪問する。モン族の追悼碑に献花を行なった後、彼はモン族のシャーマンによる“癒し”の儀式に参加する。これは(少なくともこのドキュメンタリー内の事実としては)大きな効果を発揮するのだが、それはシャーマンが彼に虐殺の責任はヴェトコンにあり、あなたにはないと言ってもらうからなのだ! しかし、虐殺の実行者がヴェトコンであることはグレイ氏にとっても最初から前提になっていたはずであり、それでもなお犠牲者をヴェトコンの標的になるような立場に追いやったことに関して彼は罪責感を感じていたのではなかったのか? 恐らく彼自身、「実際に彼らを虐殺したのは私ではなくヴェトコンだ、しかし・・・だが・・・」といった自問自答を繰り返してきたはずである。他ならぬモン族の一人に(だが彼らとてアメリカに利用され亡命を余儀なくされたという意味では犠牲者ではあるが、グレイ氏が関わった事件の犠牲者の遺族というわけではない)合理化を肯定してもらったことが意味をもったわけである。そしてグレイ氏はそれまで避けてきたワシントンのヴェトナム戦没者慰霊碑を訪問する・・・。
これは“癒し”の物語としては成立しているのかもしれないが、まるで彼の抱えてきた罪責感が錯誤によるものであったかのようである。もちろん、アメリカという国家の戦略的な選択の結果に対してグレイ氏が個人的に罪責感を感じた過程にはすでに別の欺瞞があったのではあり、彼一人が個人として担わねばならない罪責感ではそもそもなかった、とは言うことができる。また虐殺の実行者の責任は(このドキュメンタリーではその企画趣旨ゆえにまったく問題にされてはいないけれども)それとして追及されうる。だからといって、「悪いのはヴェトコンだった」ではそもそもヴェトナム戦争を批判的に捉え直すことなどできなくなってしまうのではないか。
このドキュメンタリーのもうひとつのモチーフとして、グレイ氏がウーンデッド・ニーの犠牲者であるスー族のヴェトナム帰還兵たちとの間に結ぶ交流があるのだが、ここでもやはり人間(しかもジェノサイドを辛うじて生き延びた人びとの末裔)の心が国家に取り込まれてゆくことに対する切実な問題意識を見いだすことはできなかった。グレイ氏にせよこの番組の監督にせよ、強い国際的な圧力に晒されたわけでもないのにアメリカの戦争犯罪を直視しようとした“良心的”な人びとであるわけだが、同時に(妙な言い方だが)あまりにも自発的な自省であるがゆえの限界も感じざるを得なかった。

*1:さらに言えば、「8月15日」が「終戦記念日」とされることーー8月14日や9月2日ではなく、「敗戦の日」でもなくーー自体が優れて政治的な事柄だ。

*2:「守るべきものは家族、郷土、日本語、皇室、国旗だ」という発言は道徳保守派の支持を固めようとしたものとみなすのが妥当だろう。