罪責感をめぐって

どこから、どのような経緯で転載されているのかがはっきりしないため言及するのは差し控えようと思っていたのだが、映画『南京!南京!』が日本公開されるらしいという情報が伝わってきたこと、また本館で扱っているテーマとも密接に関わる事柄であるので、やはり無視せずに取り上げておくことにする。

今春、土井敏邦監督の 『沈黙を破る』 が公開されました。
パレスチナ占領の暴力を告発した、もとイスラエル将兵たちの
ドキュメンタリーです。


占領軍の兵士として任務に携わるうちに、パレスチナ人をいたぶることが
やがて快感となっていく、
知らず知らずのうちに、人間としてあるべき一線を越えてしまう・・・
そして、モンスターになる、
そのことに気づいた若者たちが、もういちど、人間になるために、
奪われた人間性を取り戻すために、自分たちが犯した罪に向き合い、
証言する姿が刻まれています。
(中略)
土井さんの問題提起に呼応するかのように、この夏、
大阪のシネヌーヴォで武田倫和監督の『南京 引き裂かれた記憶』が
公開されました。

南京大虐殺サヴァイヴァーたちが出来事の記憶を語ります。
それは、70年もたっているとは思えない、現在進行形の
痛みに満ちた証言であり、70年前の出来事が、心とからだに、
癒しがたい傷と痛みを刻みつけたことを観る者に訴えます。
彼、彼女らがこの70年間をいかなる痛みのうちに生きてきたのかを
思わざるをえません。

映画は同時に、もと日本兵にもインタビューしています。
みな、90歳以上です。
「人間のすることじゃない」と過去の自分を振り返りつつも、
結局は「仕方なかった」、「みんなやってた」「戦争が悪い」に
還元されていく証言・・・。
「仕方なかった」の一言で、戦後、すべてを許してきたので
あろう姿がかいま見えます。


戦争が悪いにしても、「人間のすることじゃない」ことを自分がしたということ、
すなわち「罪」を犯したということ、
そのことに一個の人間として向きあい、その罪を問い、
自分の罪の犠牲となった被害者の痛みを思い、
許しを求める姿勢は、そこにはみじんもありません。
「引き裂かれた記憶」というタイトルのゆえんです。
(後略)

引用文中のリンクを省略。「岡真理」という署名が真性のものであるかどうかを知り得る立場に私はないので、ここでは特定の論者の見解としてではなく、二つの映画を観た者が抱くであろう感想の一つの典型として扱うことにする。こうした反応が特異なものではないことの傍証として、アメリカで映画 Nanking をつくった Bill Guttentag 氏の見解を挙げておく。


『南京 引き裂かれた記憶』は私も観る機会があったのだが、たしかに一見したところ証言する元兵士たちに罪責感や贖罪意識を見いだすことは困難に思える。しかしながら当ブログでは、野田正彰氏の『戦争と罪責』(岩波書店)以来一般的なものとなったかに思える「罪責感をもたない元日本軍兵士」という図式に疑問を呈してきた。一つには、保阪正康氏が非常に印象深い事例を紹介しているように、個人の内面で、あるいは家庭の内に閉じ込められてしまった激しい罪責感の表現が存在していること。先日読んだ本でも著者は中国戦線に従軍した父親のそうした表現が執筆の契機であったという趣旨のことを述べていた*1。第二に、それを学問的に裏づけるものとして、清水寛氏らの研究がある。国府陸軍病院の「病床日誌」(カルテ)を分析した清水氏らは、調査対象とした374人中「罪責感」に関わる症状をあらわしている患者が31人いたことを報告している(『戦争と罪責』では約2千件中たった2例だとされていた)。
第三に、証言は聞くものと語る者との共同作業なのであって「どのように聞いたか」を問うことなしに証言を評価することはできない、という点。上記引用では省略した箇所では「その証言に耳を傾け、問題を共有していこうとする姿勢は、/戦後60年間、どれだけあったのか・・・。」とされているのでこうした問題意識が書き手にないとは思えないのだが、『南京 引き裂かれた記憶』についてのコメントにはこの観点が十分反映されているとは言えないように思われる。松岡環氏らの作業は南京大虐殺の「証拠」となる証言を求めてのものであったことは、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』(社会評論社)の第一部を読んでも明らかである。したがって(現実に戦争犯罪人として訴追されるおそれは皆無だとしても)証言を聞くプロセスは犯罪を暴く過程である。自らの、あるいは自らが所属する組織の犯罪が追及されるという文脈においては、たとえ積極的な協力者においてであれ、自己防衛の機制がはたらくことは避け難いことである。犯罪の証言者に罪責感の表明や贖罪意識を要求することは、密室での取り調べに固執する捜査当局の意識に通じるものがあるといったら過言だろうか*2
『沈黙を破る』でもっとも印象的なシーンの一つは、「沈黙を破る」のメンバーが国会で証言する場面である。彼らは自分たちが学校で教育された人権の理念が占領地で踏みにじられていることにショックを受けた、と語る。彼らはイスラエルという国家が行なっている人権教育をテコとして、占領がイスラエル社会の病理を生みだしていると告発しているのであって、『南京 引き裂かれた記憶』の元兵士がおかれているのとは大きく異なる文脈で発言しているのだ*3
もちろん、南京事件から60年(松岡氏らが活動を始めた時期)たってなお「南京大虐殺の証拠をさがす」というかたちで証言を集めねばならなかったことは松岡氏らの責任ではなく、日本政府の(ということは戦後の有権者の)不作為に責があることがらではある。それはそれとして、「南京事件はあったか、なかったか」という疑似論争とは無関係な文脈で元兵士たちが自らの体験を語ることを促せていたらどうだったろうか? ということは考えざるを得ない*4


野田正彰は現代の青少年について論じる際にアレキシサイミア(失感情言語化症)という概念をひきあいに出しているが(ネットで読めるものとしてはここなど)、他方で『戦争と罪責』を含む著作では若者に限らず「この国の多くの中高年層の感情は強張り、他者との開かれた交流能力を欠いている」(『戦争と罪責』、7ページ)といった指摘を繰り返している。罪責感が無いことと、自らの罪責感を認知しそれを表現する能力を欠くこととは区別されねばならない。後者の観点で元兵士たちが証言する姿を見るとき、「罪責感の不在」を個々の元兵士の内面の問題ではなく戦後日本の文化の問題としてとらえることができるだろう。


さて、昨日のエントリでも報告した映画『南京!南京!』について。日本公開が決まったと報じた「シネマトゥデイ」の見出しは「日本人は鬼畜なのか?人の心を持つのか?南京大虐殺を描く映画がついに日本で配給決定!」で、正直に言ってうんざりさせられる。中国人である陸川監督が「日本兵を妖怪に仕立てるのは無益」というまっとうな認識を持っているというのに、である。鬼畜がやったことであればそれは現代のわれわれにとって何ら問題を提起しない。だがそんな本質主義は、虐殺を正当化するレイシズムと同根である。「日本人は鬼畜なのか?人の心を持つのか?」は単なるセンセーショナリズムであって、学問的な虐殺研究の示す地平とはまるで交わらない。いい加減、こういう紋切り型はやめてもらいたいと思うのだが、「元日本軍将兵には罪責感がみられない」といった主張がこの紋切り型を助長することを危惧する、というのもこのエントリを書いた理由である。

*1:ところがそれがどの本だったか、思いだせない・・・。確認できたら追記します。

*2:なお小野賢二氏は「末端の当事者の苦しみを聞いてきた」として、加害体験が元兵士にとってトラウマになっていたことを暗示している(『季刊戦争責任研究』第21号、1998年、66ページ)。

*3:さらに付言すると、二つの映画では元将兵の関与の仕方が大きく異なる。『沈黙を破る』は元将兵が自発的にはじめた活動を追いかけたドキュメンタリーだが、『南京 引き裂かれた記憶』に登場する元兵士は松岡氏らが“発見”した証言者である。イスラエルで証言者を捜せば、なんらの罪責感も見せずにパレスチナ人を殺した経験を語る人間は当然いるだろう。松岡氏が元兵士を訪問する場面をみれば、すでに何度かはなしを聞いた相手を再訪問しているのだということがわかる。元兵士らは以前に語ったことを映画のために改めて語っている、すなわち“証言者役”で映画に登場することになってしまっている、という印象を否定できない。これは彼らが語ったことの真偽には基本的に影響しないだろうが、自らの体験を彼らがどう受けとめているかを探ろうとする場合には念頭においておかねばならないことだろう。

*4:ビルケナウ絶滅収容所の元所長から、犯罪の追及とは異なる文脈においてジャーナリストが引き出した言葉については次を参照されたい。http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090922/p3