ホロコーストの一断面

すべての人間がホロコースト研究に関心をもつなどというのはむしろ異常なことであって、多くの人が通り一遍のことしか知らないのは当然と言えば当然である。それにしても、強制収容所における犠牲者がユダヤ人に限られるわけではなくロマ人、同性愛者、障害者、ソ連軍の捕虜、ポーランド人もまた多数殺害されたことはそれなりに知られており、それゆえホロコーストを「ユダヤ人が嫌いだから殺しました」で片付けるわけにはいかない……ということはある程度広く了解されていると思っていたのだが(それこそ、ウィキペディアにも書いてあること)、必ずしもそうではないようである。ということで、D_Amonさんのエントリ、「歴史の教訓とすべき人類史の悲劇が大袈裟な罵倒と解釈されてしまう件」への補足として。主に1940年におけるユダヤ人およびポーランド人の追放政策に関する、ゲッツ・アリーの記述(『最終解決 民族移動とヨーロッパのユダヤ人殺害』、法政大学出版局)から。なお以下はある時期の追放政策をある観点から記述したものをさらに私が単純化して提示しているものであって、もちろんのことホロコーストの全体像を描こうとしたものではない。「ユダヤ人が嫌いだから殺しました」や「「優生学はなぜ否定されねばならないのか?」という問題」という図式ではホロコーストを捉えきれないというのはいかなる意味においてか、を明らかにするのが目的である。


ソ連との間でポーランドを分割占領したナチス・ドイツはさらにその占領地域を二分し、西側を「帝国」に編入、東側(ポーランド全体としては中央部)を総督管区とした。自らの勢力圏で「民族の耕地整理」を実行し「民族的新秩序」を確立するために、彼らは帝国外に住む民族ドイツ人 (Volksdeutsche) を「帰還」させ、彼らを定住させるためのスペースをつくり出すためにポーランド人とユダヤ人を追放しようとしていた。

(…)併合された西部地域には八百万のポーランド人がいて、そのうち五十五万がユダヤ人であった。この西部地域の人口のうちポーランド人の半分とユダヤ人の全員を短期間に総督管区に放逐し、それによって空いたところに帰国ドイツ人の植民を行なうことになっていたのである。
(8ページ)

ドイツが民族ドイツ人の移住に関する条約を結んでいたイタリア、バルト三国ソ連からの移住者の場合、移住者がそれまでの居住地に残した財産を公認会計士が査定し、その評価額にみあった石油や食料品が「補償金」としてドイツに支払われた。財産を失った移住者には追放されるユダヤ人とポーランド人から没収した財産によって補償がなされた(102ページ。こうやって財産を、あるいは生産手段を失ったユダヤ人やポーランド人が次の段階では「余計な徒食者」扱いされることになるが、この点については詳述はできない)。これだけでも相当な事務処理が必要となることが分かるだろう。語弊のある言い方になるが、単にユダヤ人を殺害することだけが問題だったのであれば、担当者たちにとってはずっと簡単な課題だったであろう。そしてホロコーストは実際に起きたことよりもずっと、ポグロムに類比可能な出来事となったのではないだろうか。帰還した民族ドイツ人にドイツ人にふさわしい生活水準を保証するためには、ドイツ人1家族あたり2ないし3のユダヤ人/ポーランド人家族を追放する必要があった。追放されるユダヤ人、ポーランド人の数は帰還してくるドイツ人の数に基づいて計画されたのである。それだけではない。

(…)「立ち退きと受け入れには作戦上の理由から」同じ列車と同じ護衛隊が投入されねばならず、農場での農作業――特に家畜の飼育と搾乳――の中断は許されなかったために、「少しずつ順次」行なわねばならず、住民の入れ替えを取り仕切る担当者たちは、心理的な措置にも配慮しなければならなかった。極秘の「留意事項」には、「立ち退きが行なわれている間、ボリンとガリチアからのドイツ人移住者に立ち退きの現場を見せないように、その家族とともに、近隣の農家に暫時宿泊させること。このことはボリンおよびガリチア・ドイツ人の心理にとって無視し得ないことである。(……)立ち退かされるポーランド人家族の姿が見えなくなってから入植者の収容を行うこと」とある。つまり、ガリチアとボリンからのドイツ人農民は、バルト・ドイツ人とは違って、素朴な生活環境に囲まれてきていて、ポーランド語もよく話し、そう簡単には彼らに与えられた「支配民族」という態度図式に適応しなかったのである*1
(76-77ページ)

ホロコーストは「合理的に遂行された」ところに特徴がある、というのはそれがなんの困難にもであわず、計画にのっとって粛々と進められたということを意味しない。例えばユダヤ人・ポーランド人の追放先である総督管区の責任者にとっては、財産を奪われた多くの人々が流入することは治安上の問題を惹起することになる。そのため収容可能なペースでの追放にとどめるよう要望することになる。軍は併合地域に巨大な演習場をつくる計画を立てており、それが帰還者に与える土地を奪うことになる。さらにバルバロッサ作戦の準備が始まると軍が鉄道の優先的な使用を主張する。こうした様々な要求を調整するためにこそ官僚機構をフル稼働させる必要があったわけだ(それでも計画通りには進まなかったのだが)。
さらに移住者たちの職業にも配慮する必要があった。

 この計画〔=第二次当面計画〕はまた、当初予定した一九四〇年一月中旬ではなく、四月初旬になってやっと実行に移された。それも六十万のユダヤ人ではなく、実際には人数もはるかに少ないだけでなく、対象もまったくちがって、十二万のポーランド人になっていて、前面に出されていたのはヴァルテガウの農場の「明け渡し」だけであった。というのも、今はソ連側に併合されている旧ポーランド領のボリンと東ガリチアから帰還する民族上のドイツ人はほとんどが農民だったからである。
(87ページ)

帰還者への配慮、食糧生産の確保のために、ユダヤ人よりもあえてポーランド人を選んで追放する計画を立てたわけである。移住政策の経費は追放の対象となる「民族」から没収した財産で賄われたため、そしてポーランド人とは違ってユダヤ人の場合には財産の没収だけが先取りして行なわれたため、具体的な移住計画ではユダヤ人の追放が後回しになる、という現象もみられた(103ページ)。ホロコーストにとって反ユダヤ主義が重要な要因ではあっても、決してそれだけで理解できないことがよくわかるだろう。
なおアリーによれば、この時期における精神障害者の大量殺害も、「民族の耕地整理」と連動して行なわれている。帰還してくる民族ドイツ人の「宿舎や通過収容所を確保」するために病院施設を利用する必要があり、そのために精神病院の患者たちがガス車で殺害されたのである(90ページ〜)。
独ソ戦が始まるとこれらの政策は新たな展開を見せることになるが、それについては D_Amonさんのエントリをご参照いただきたい。

*1:つまりは「かわいそう」を「ナイーブ」として切り捨てられなかった、ということ。引用者。