落ち穂拾い

すでにあちこちで指摘されていることですが、toledさんや hokusyuさんが(そしてそれを受けて私が)「持ちネタ」たるホロコーストをなんの必然性もないのに持ち出した…ということにしたがっている人に限って、fuku33氏がトリアージをひきあいに出す必然性があったのか、「ネタ」として扱ってなかったのか、をこれっぽっちも考えようとしていないことは実に興味深いです*1。ちなみに、他人を代弁することは避けて私自身についていうなら、「トリアージをネタ扱いするな」という趣旨での批判はしていません*2。これまた幾人もの方が、経営学における「資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる」という発想を教えるうえでトリアージをひきあいに出すのはむしろ不適切なのでは、と指摘されていますが、少なくともトリアージ以外の例があり得たことは間違いないでしょう。
で、私は有限な資源を最適に配分することの必要性を否定しているのか、といえばもちろんそんなことはありません(この別館についていえば、むしろ資源が最適に配分されなかった事例を批判していることの方が多いのではないかと思います。日本とドイツとの大きな違いにかかわることですから)。toledさんと hokusyuさんと私とで批判の趣旨とか力点のおき方が一致しているわけではないのでここでも他人を代弁することは避けますが、ホロコースト研究の中心的な成果というのは*3要すれば「大虐殺は野蛮が行なうのだとは限らず、むしろ啓蒙の帰結でもありうる」ということ、ホロコーストは狂人の所行ではなく*4極めて合理的に遂行されたものである、ということです(だから、ホロコーストを問題にすることは常に左派の自己批判を喚起せずにはいないのですが、そういうことは「気に入らない奴をヒトラー呼ばわり」で済まそうとする方々は知らないのでしょう)。つまり、有限な資源の「合目的的な最適配分」の追及が、その「目的」を反セム主義や優生思想や反共主義によって設定された時に引き起こしたのがホロコーストだったのです。それだけではありません。すでに指摘したように、親衛隊員を含む多くのドイツ人にとってユダヤ人やボルシェビキや障害者や同性愛者を殺害することは決して楽なことではありませんでした。現に、障害者の殺害については、国内での反対をうけて表向き中止されています(「かわいそう」が機能したわけです!)。そうした心理的抵抗を超えて大量殺害を可能にしたのが「例外状態」という想定――そう、まさにトリアージが要請されるような――だったわけです。しかしもちろんこの「例外状態」は、「アーリア人種」の観点から一方的に想定されたものでしかありませんでした。そして大災害の場合ならともかく(そして経営学も基本的には大災害時のあるべきふるまいを研究対象としているわけではないでしょう)、「例外状態」が言い立てられる時にはたいてい似たようなものであるわけです(「満蒙は日本の生命線」もそうでしたし、文革だってそうです)。私の批判の主眼は、「かわいそう」を fuku33氏が「ナイーブ」として切り捨てるふるまいこそ、こうした事情をふまえないナイーブなふるまいなのではないか、というものでした(現時点では、fuku33氏があちこちで五月雨式に様々な釈明を行なったうえエントリの大幅な改変を行なってますので事情が分かりにくくなってますが)。「かわいそう」はもちろんナイーブではありますが、しかし「その合目的的な最適配分」がなにを帰結しうるかを自覚的に考える契機足りうるからです。そしてこのような観点から fuku33氏を批判しようとする時に、ホロコースト以上にひきあいに出すのにふさわしい事例はそうそうないのです。「満蒙は日本の生命線」とか「造反有理」は決して有限な資源の「その合目的的な最適配分」を帰結したわけではないので。


これでもまだ「福耳先生がトリアージをひきあいに出したのはもっともだが、お前がホロコーストをひきあいに出したのは単なるネタだ」と言いはるつもりのあるひとは、ぜひともここのコメント欄においでいただきたい。いくらでもお相手します。

*1:どう興味深いかと言えば、要するにトリアージのはなしを聞かされるのは好きだがホロコーストのはなしを聞かされるのは嫌いだ、って人がいるってことです。

*2:理由はいくつかありますが、省略します。

*3:細かくいえば「意図派」と「機能派」の対立とかいろいろあるわけですが、私は後者にコミットしていますので。

*4:さらにいえばヒトラーとかヒムラーとか親衛隊だけの問題ではなく、国防軍も関与していたし「普通のドイツ人」もある程度事情を知りつつそれを受け入れていたわけです。この観点から言えば、ホロコーストを問題にすることは「ナチ呼ばわり」「ヒトラー呼ばわり」からむしろ遠ざかることであるとさえ言えます。この注、追記。