どのような意味で「自明」か(追記あり)

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080916/p1
に対するブクマid:fuldagap氏が次のようにコメントされてます。

多くの人の証言と、物証があるから「南京大虐殺はあったのだ」と考える俺は間違っているのか。俺が、なるべく多くの人がハッピーになる方法、を考えるのは、メリットを前提とした誤ったやり口なのか。考え込んだ。

とりあえず前半についてだけ書いておこうと思ったのですが、その前に kmiuraさんが書いておられました(「ベタがベタでなくなったとき」)。以下はほとんど蛇足ですが。
南京大虐殺の場合、過去において「多くの人の証言と、物証」によって虐殺の存在を「証明」する手続きがとられたことがある……のはもちろんたしかです。しかし証言や文書資料がたくさんあるから事実だったのだ、と主張する者は「お前はその文書に目を通したのか」とか「その証言にはどれくらいの信憑性があるのか?」とか「こういう証言もあるがどうなのか?」といった否定論の挑戦に具体的に応えねばならないわけです。研究者によって資料集や研究所が刊行され、またネットでも先人たちが資料を公開したり否定論の定番の論法を分析してその成果を蓄積してくれたおかげで、私のような素人でも多少はそうした具体的なはなしができるようになってはいるわけですが、それにしたってある程度の時間的、経済的リソースは必要になるわけです*1。じゃあある程度のリソースを割かない限り「あったかどうかわからない」という立場をとらねばならないのか……といえばもちろんそんなことはない、という点が大切なのです。今年の1月にも問題になったことですが、本能寺の変だとか三国干渉とかシベリア抑留などについては「まとめサイト」なんて存在してないわけです(まあ探せばあるのかもしれませんが、誰も気にしてないわけです)。存在してなくてもこれらが歴史的事実であることを誰も疑わないわけです。それは結局のところ、歴史教科書だとか歴史学事典だとか一般読者向けの通史に結晶しているような、「人間が歴史の中で戦ってきた過程」(kmiuraさん)の「重み」が自明性を支えているからです。「証拠を吟味してみなければ本当かどうかわからない」という懐疑精神がすべての歴史的出来事に対して(少なくとも権利上は)等しく適用されるわけではなく、旧日本軍の汚点に関わるような特定のトピックにおいてだけ発動されることについては、これまでも度々具体的に指摘してきました。そんな御都合主義的な懐疑精神もどきにつきあって自明性を放棄する必要はない、ということではないでしょうか。


追記
http://kazus.blog66.fc2.com/blog-entry-5177.html (←URLに誤りがありましたので訂正しました。)
いや〜、kmiuraさんのエントリもちゃんと読まれました? hokusyuさんにせよkmiuraさんにせよ私にせよ、おっしゃるようなことは当然念頭においたうえで書いてるんですけど……。hokusyuさんがとりあげた問題は、kmiuraさんのことばを借りれば、「人間が歴史の中で戦ってきた過程」の「重み」を大切にするのか、それとも“高校の公民で習う程度のことすらふまえずになんでもゼロから始めさせようとする相対主義に与するか”の問題なんですよ。あなたは後者に与するつもりなのでしょうか? そうじゃないだろう、と思うんですが。

*1:ホロコースト否定論や創造説との類比に基づいて、南京事件否定論についても「無視すればいい。なぜなら否定論と議論すること自体が否定論が論として成立していることを認めることになるから」という立場をとる人もいるでしょう。ただ、ホロコースト否定論が違法化されているドイツの場合とはやはり事情が違うだろう、と私自身は思います。