ポモ系リベラルは気楽な稼業と来たもんだ〜♪

いや〜来ましたね。日和見クンが自己正当化をはかって墓穴を掘った、ってところでしょうか。

最初は「虐殺問題についていくつか」とかいう、すっごい投げやりなタイトルでしたよね、たしか。
南京事件とも歴史認識の問題とも直接関係のないところから始めると、「そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか」とか言うその同じ口で「2ちゃんねるはてなブックマークもなにも見ていません」とか言っちゃうところですね。「精神の健康によくない」? だったらなおさら、自己愛を満足させるためだけのエントリなんて書かない方がいいんじゃないかな。それとも、「真実が大事だ」と思ってないからかまわないってことかな? けど「2ちゃんねる」や「はてな」どころか大塚英志に追及された時だって「人格批判」とかいって逃げてたじゃん。ネットでは言い抜けに窮した人間が言いだす定番の台詞ですけどね、「人格批判だ」ってのは。
それから「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と「随所で主張」していると主張するその同じエントリ中で、速記者を盾に弁明しようってのもずいぶんと面の皮が厚いですよね。なにがあろうと「東浩紀デリダをダシに歴史修正主義のケツを舐めた」と断言するひとが「かなりのボリュームでいる」ことについては諦めてもらわないとね。


さてそろそろ本題です。論点は三つ。第一に、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」という主張にまじめにコミットする気があるなら、「南京虐殺について自分で調査したわけではないですから」(『リアルのゆくえ』)などという言い訳はする必要もなかったしまたするべきでもありませんね。だってそうでしょう。「自分で調査したわけではない」から議論に介入しない、なんてことはどんなバカにだって言えるでしょう? ひょっとしたら京大霊長類研究所のアイにだって言えそうですよ。なんでそんなことを金払って聞いたり読んだりする必要があるんですか。仮にも言論で飯を食ってる人間であれば、言論人として恥ずかしくないだけ十分に「自分で調査」した事柄について「絶対的真実はない」と言ってみろよ。「強い実感」がない事柄じゃなく「強い実感」をもつ事柄について「議論してもしょうがない」(「ゼロ年代の言論」)と言えよ。それをしない、出来ないというのは単に日和っただけだろ、と。
第二に、「南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」ってのはいったい誰に向かって言ってるわけ? 「場所を与える」もへったくれもなくて現に右派論誌や産経新聞がしょっちゅう否定論を載せてるじゃん。否定論に与する議連まであるじゃん。いまの日本で、南京事件否定論を非合法化しようとする政治運動がある*1? くだらねぇ因縁つけてんじゃないよ。
第三に、「解放」の直前まで運営が続いていた(一部の収容者は解放時にも残っていた)アウシュヴィッツの収容所と、大虐殺事件から7年半ばかり日本軍が実質的に支配していた南京を同列に並べ、両所への訪問体験を語るナイーヴさ(ましてビルケナウと下関を比較するならともかく、80年代半ばにつくられたに過ぎない紀念館と比較するセンス!)。さて、90年代の東京、特に深川や浅草といった地区の風景を(ご記憶の方は)思いだしていただきたい。そこに10万人以上と言われる死者の「強い実感」を抱くことのできる人がどれだけいる(いた)だろうか? なんなら両国国技館近くの東京都復興記念館を訪れて、東京大空襲に関する展示を見てもよい。いまだに続く日本「政府の余裕のなさ、というかある種の怠慢」をはっきりと見てとることができるから。にもかかわらず東京大空襲の実在を疑う人間は(ほとんど)いないのはなぜなのか? この問いを欠いている点は致命的だ。国際的な圧力があったとはいえまがりなりにもドイツ政府がナチス戦争犯罪を調査、処罰したのに対し日本政府は南京事件の実態解明のためになに一つしたことがない、という相違を無視している点も一人の有権者として無責任に過ぎると言えよう。


追記:「アインシュタインの予言」にせよ「張作霖爆殺はソ連の仕業」にせよ、しぶとく主張し続ける人間さえいればそのうち「ポストモダニズム系リベラル」が登場して「真実は分からない」とか言ってあげるのでしょうね。その次は「水伝」かな、インテリジェント・デザインかな。

*1:ちなみに私はと言えば、今の日本の民度では歴史修正主義的言説の非合法かなんてとても危なっかしくて出来ない、と思ってます。