東擁護論について

自分では擁護の論陣をはるつもりもないくせに「フルボッコにしているのはけしからん」とか言いう無責任な輩が出てくるのも面倒ではあるので、そしてまたこちらの知見を深めるためにも東浩紀を擁護する人間が登場するのは歓迎すべきことですが……。

swan_slab ていうか、単純に「正確に説明はできないけどさぁ学者じゃないから」とかそういうレベルの文脈の発言だったんじゃないのかな、なんでそういう話になるのかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

だって「そういう話」じゃなかったですから*1。「ポストモダン系リベラル」について話すために南京事件を引き合いに出した、というのは東浩紀自身の選択であって、こっちで勝手に押しつけた文脈じゃありません。
例えば大塚英志の方から南京事件否定論が蔓延している状況について問題提起され、それに対して「正確に説明はできないけどさぁ学者じゃないから」と返答したのであれば、こんな風に問題にはしませんよ。


もう一つ。

端的に言って、独自の問題提起としてならともかく、東擁護論としては機能していないのでは? 例えば次のような一節から、Domino-R氏の言うような問題意識をどう読みとることができるのだろうか?

東 世界にはいろんな立場の人がいます。たとえば、南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう。しかしアマチュア同士では意味がない。そして、当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。
 ぼくたちがいるのはそういう環境です。そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない。そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い。
(『リアルのゆくえ』、209ページ)

ここで東は議論を「「政治」的な論争だと思われているものの多く」へと一般化しているうえ、釈明の一環として「(この場合の南京大虐殺は例)」と言ってしまっているのである。
なおコメント欄でも補足しておいたが、東浩紀が無視していることのひとつに“南京事件否定論の蔓延はネットの普及よりずっと古い”ということがある。1970年代のはじめから、『諸君!』『正論』といった雑誌メディアは否定論者に自説を語る場を与え続け、その結果として現状があるわけだ。東が要求していること、すなわち「南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要」はこの30年以上十分に達成されてきたと言ってよい。論争が「収束」しないのがネットの特性のせいであるかのような主張は、控えめに言っても事柄の一部を捉えているに過ぎない。


それにしても、「責任」をキーワードとする擁護論においてもう一方の当事者の視点への意識がまるでないように見えるのはどういうことか。「責任」というのはこういう風に語りうるものなのだろうか。

*1:ここ、「「そういう話」でしたから」ないし「「そういうレベルの文脈の発言」じゃなかったですから」と書くべきでしたね。意味が逆になってしまっています。すいません。