「公開されない情報」?

東は歴史学に関して素人だが、「知識人」なのだから南京事件の有無という「結果」について言えなくても、歴史資料等よりテクストのレベルで検証しうるのではないか、と言っているように見える。
ただこれはあまり意味が無い。その方法によって「結果」に言及できるなら、東は「専門家」である。というより、専門家でない人間のアクセスできる情報をテクスト的に解釈することに何か意味があるか? というのはポストモダニストならば持って当然の疑問だろう。

ここで東は「専門家」とは生情報/一次情報への直接アクセスが可能であることだと言っているわけだ。公開されない情報へ直接アクセスできないなら、断定的なことは言えない。彼は「知識人」の「責任」をそう考えている。

そもそも東浩紀は「自分で調査したわけではないですから」と言い訳しちゃってるので、あまりしがいのない擁護を一生懸命しておられる、という感じだが……。どう考えても「ここで東は「専門家」とは生情報/一次情報への直接アクセスが可能であることだと言って」ないでしょ?
それはそれとして、この人は歴史学者が“非公開資料”に大きく依拠して南京事件を研究していると思っているのだろうか? 防衛省が公開していない資料は研究者だってアクセスできないし、公開している資料は誰でも手続きさえ踏めば閲覧することができる。ある時期まで公開されていた資料が後に非公開になってしまう例もあるが、東浩紀がツテを頼って研究者にアプローチすればコピーをみせてもらえる可能性は決して低くないだろう。そもそも主要な資料は資料集というかたちで市販されていて、偕行社の『南京戦史資料集I II』だって大きな図書館か神田の古書店街にいけば簡単に見つかる。もちろんこれは「生資料」への「直接アクセス」ではない。しかし文学研究って生原稿(写本)にあたらないとまったく出来ない、なんてことはないですよね? 東の「ソルジェニーツィン試論」って読んでないけど、ソルジェニーツィンの生原稿にアクセスしたのかな? 問題は関係者への聞き取りの部分だが、これはいまとなっては研究者にだって不可能になりつつあるし、逆に関係者が多く生存していた間であればプロパーの研究者でなくても出来たことだ。現に我々は「化学労働者」の小野賢二さんが郷土部隊の元将兵たちから証言を得、陣中日記等の資料をみせてもらった(これも多くは資料集として刊行されている)ことを知っている。虐殺の全体像とディテールとを十分に描き出そうとするならともかく、虐殺が「あったか、なかったか」の水準で言えば専門家にしかアクセスできない情報になど依存する必要はないのだ。東は「そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない」「そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い」と言っているが、南京虐殺が「あったか、なかったか」というのはもはや学問的な問いではなく政治的なイシューに過ぎないんであって、大塚英志は東に対し南京事件についての「科学的真理」「新しい知見」を探求せよなどと要求しているのではない。東自身も「あったと思っている」こと、あの岡村寧次が自分の命じた調査の報告に基づいて「大殺戮」だったと(当時のエリート軍人の価値観で!)認めていることを否定する政治運動がある、という事態に対してコミットするつもりはないのか? と問いかけているのだ。