ある極限例

映画「南京の真実」サイトの「情報交換掲示板」において「さるおかた」というやんごとなきハンドルの方から名指しで返答を求められたのですが(スレッドNo.128)、なにぶん「南京大虐殺に関する中国側の主張をおまえは認めるのか、それとも嘘っぱちだと認めるのか?」という無茶な二者択一を要求する人なのでなかなかはなしが噛み合いません。そのうちにとんでもないことを言い始めました。どうも『南京戦史』がどういうものだかよくお分かりでないような方のことをあげつらうのはためらわないでもないのですが、資料や証言というものに対する歴史修正主義者の態度のカリカチュアみたいになっていますので、ご紹介することに意味もあるかなと思った次第です。
「大虐殺と言って然るべきようなことはあった」と考える人間が『南京戦史』及び『南京戦史資料集』に対してどのような態度をとっているかについて、この人物が根本的に勘違いしていることを示すのが次の一文です(発言[5])。

南京戦史に出てくる証言が絶対的な物だと言い切れますか?

旧陸軍の正規将校の親睦団体がつくった戦史をそのまま鵜呑みにするわけないじゃないですか。そしてネットでよくみかけるカジュアル歴史修正主義者に共通するのは、資料というのは丸呑みするか全否定するかのどちらかとでもいわんばかりの態度なんですね。戦闘詳報や陣中日記には意図的な改竄などがないとしても当時の執筆時点で錯誤、記憶違いなどにより結果的に誤りが混じることは当然あります。そうしたおそれのない、すなわちそこに書いてあることをすべて鵜呑みにしてかまわないような資料がゴロゴロ転がっているのなら歴史学者は左うちわで暮らせそうなものですが、南京事件に限らずそんな資料なんて皆無と言ってよいわけです。次の一文には、一体どう返答したものか、しばらく頭を抱えてしまいました(私のレスは現時点ではまだ掲載されていません)。

「南京戦史資料集I、II」とは
僕の言っている南京戦史とは別物だと言いたいのですか?
南京戦史は、大虐殺の信憑性がないというのですね?
一部の肯定派で南京戦史を根拠にしている人がいますが、
その人々の主張は嘘と考えて言い訳ですね
ではその「南京戦史資料集I、II」を、あなたは鵜呑みにしているわけですか?


それではその「南京戦史資料集I、II」に書いてある証言で
虐殺をしたとされる被害人数は何人と書いてあるんですか?
殺害と証言しているものは認めません。
場合によっては中国の主張が嘘だと言うことになりますよ。

最初の二行は、「さるおかた」さんがどうも『南京戦史』と『南京戦史資料集I、II』とをごっちゃにしているようだと指摘したことを受けて書かれているのですが、やはり両者の関係がよくお分かりでないようです。5、6行目からは「鵜呑みにするか、嘘っぱち扱いするか」の二者択一しか頭に思い浮かばないらしいことがわかります。しかしなんといってもすごいのは二つ目の段落です。この人は歴史学(というより人文科学・社会科学)が依拠する資料がどのようなものであり、その資料をどのように扱うことによって歴史的事実が認定されるのかについて、とてつもないカン違いをしているわけです。「虐殺した」と書いてある資料がなければ*1虐殺があったとは認められない! というのです。無茶苦茶ですね。こんな発言もあります。

だいたい30万人虐殺したという証言すらないでしょ?

いい大人がこんなこと書いて反論になっていると思っているかと考えると、情けなくなります。事件の全体を当時鳥瞰した人間なんていない(存在しえない)のだから、一次的な証言として「30万人虐殺した」というものがないのはあたりまえです。要するに、この種の人々の頭には、「出来事の断片に触れているにすぎず、また悪意がないにしても錯誤等を含む可能性がある数多くの資料を相互に照合し、つなぎ合わせて全体像を再構成する」という作業のことなどこれっぽっちもないわけです。
「あなたは自分の目や耳で確かめていない物を信用できますか?」という一方で「東京大空襲、広島・長崎の原爆投下、これらはハッキリしているんじゃないですか?」などと言ってしまうあたりには、南京事件否定論者の論法のアド・ホックさがよくあらわれています。これまでも何度か述べてきたように、「そんな基準を設定したら歴史上のほとんどの出来事を否定してしまえる」ようなことを平気で言うわけです。


ちなみに、『南京の真実』スタッフブログに掲載された「老兵は死なず  水島 総」についてのエントリから送ったトラックバックはやはりスルーされてしまいました。

*1:もちろん「虐殺」という語を用いている資料だってあるわけですが、ここでは『南京戦史資料集』に収められている旧軍関係資料がとりあえず問題になってますので。