「責任」について(承前)

前回に引き続き Domino-R氏の「東を全力で擁護してみる」について。正直に言えば今の時点*1で「責任」の問題を本格的に論じるのはしんどいというか避けたいところ。というのも、南京事件否定論はメディアだけでなく自民党および一部の民主党議員やその支持団体を巻き込んだ(あるいは彼らが主導する)政治運動であり(彼ら自身は「情報戦」と言っているが)、となればこちらも(特にプロパーの研究者としての役割に自己限定するという方策をとることができない私のような人間の場合)「政治的」にふるまわざるを得ないところがあって、そのためなにをどう、どんな根拠でもって語るかという点であれこれと制約を被っているというのが実情だから。というわけで、以下ではあり得る論点のすべてに応えているとは自分でも思っていないことをお断りしておく。


さて、Domino-R氏のエントリでは2種類の「責任」が問題にされている。一つは次のようなもの。

まず意識しなければいけないのは、南京の問題を日本人(の学者/知識人)が扱う場合、何らかの意味での歴史的な責任の問題を避けて通れないということだ。端的に戦争責任といってもいい。

もう一つは次のようなもの。

ただ否定論批判が歴史学者によってなされるか、そうでないかは違いがある。ID論の批判を、物理学者のみならず、経済学者や工学者が行っているだろうか? だとしてそれは物理学者がするのと同じ意味/責任を持つものか?

前者は東が南京事件をひきあいに出したからこそ論点として浮上したものである。従軍「慰安婦」問題をひきあいに出していたとしても同様だったろうし、沖縄戦「集団自決」問題やイラク戦争への加担をひきあいに出していたとすればいくぶん違ったかたちにおいてではあろうが、やはり浮上したであろう論点である。これに対して後者は、竹内文書インテリジェント・デザイン説や「水伝」、あるいは人権擁護法案をめぐる対立をひきあいに出して東が自説を展開していたとしても浮上する論点である。
しかしそもそも、Domino-R氏が直接言及している二つのエントリの書き手たる Mukke氏、tikani_nemuru_M氏の二人とも明示的には「戦争責任」を論じてはいない(私は限定的に論じているが)。ご両人の東批判の立脚点をひとことで言うならそれぞれ「自分の専門分野以外の学問に対する最小限度のリスペクト」(の欠如)、「これらの発言は、ごくごく単純に科学的に歴史を見るということを否定しているわけですにゃ」となるだろうか。
Domino-R氏はこれを「戦争責任という論点の回避だ」と言うだろうか? 「南京大虐殺」というトピックに定位して考える限り、そう主張する余地は確かにあるだろう。しかしそもそも論で言えば、東浩紀自身が、自発的に繰り返し南京事件をとりあげておきながら、「なぜ南京虐殺であって他の事例ではないのか」について納得のゆく説明を行っていないのである。逆に、ネットにおいて議論の結論が収束をみていないような事例であれば他の事例でもよかったかのような読みを誘うような発言はいくつもある。大塚英志も「知識人の責任」という観点からの追及は行なっているが、やはり「戦争責任」には触れていない。結果として、Mukke、tikani_nemuru_M 両氏の議論は「南京虐殺」という題材に依存した論法をとってはいない。
さて、後者の意味での「責任」を問題にする場合、例えばインテリジェント・デザイン説にどう対処すべきかということに関して生物学者(特に進化論を専門とする生物学者)とそれ以外の知的専門職とが負う責任は「同じ」ではない。しかしそのことは、生物学者以外の人間がなんの責任も負わないことを意味しない。というのも、ここで問題になっているのは専門家の間で見解が分かれている事柄ではなく、専門家の間では一定のコンセンサスがあるにもかかわらず市民レベルでその認識が定着していないような事柄だから、である*2。もちろん、非専門家は、個人としてはその責任を負わないことを選択することも許されるだろう。問題は、東浩紀の釈明が(1)私にはその能力がない、と(2)知識人にはそんな責任はない、の間でぶれていることである。彼が批判されているのはもっぱら(2)に関してであり、さらに私の場合は(2)のなかに(1)を滑り込ませたことを(も)批判しているのである。誰も歴史学者と同じ資格で南京事件論争にコミットすることを彼に要求したりはしていない。

*1:個人的には、紙媒体で南京事件否定論にコミットするのが『WiLL』くらいになる、というのが「事態が変わった」と判断する目安。

*2:大塚英志はこう問いかけている。「知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?」