一つの事例として

ここで主観的には議論を吹っかけているつもりの人について。higeta さんの所でのやり取りを先に見ていたのでまともな議論が成立しないことはわかっていたのだが、「日台戦争」という用語法にクレームをつける人々の基本的な発想が露呈されているという意味では興味深い。
一連のコメントで彼がやろうとしていることとは、要するに「当時の日本政府にとって“日台戦争”という呼称を用いる理由などない」ことを示すこと、にすぎない。「日台戦争」という用語を用いる人々(私自身は積極的に「日台戦争」という呼称の利用を推進しようとしているわけではないが)は別段「大日本帝国政府は“日台戦争”という呼称を用いるべきだった」などということを主張しているのではないから、これでは議論になりようがない。現在を生きるわれわれが大日本帝国のパースペクティヴを内面化しなければならない理由など、これっぽっちもないのだから。
彼がこの齟齬に気づき得ない大きな理由は、彼が主権国家を歴史の特権的なエージェントと見なしていることである。

  では、Apemanさんの主張を見てみましょう。


>(台湾で戦われた戦争をヴェトナム戦争とか日仏戦争と呼ぶわけにはいかない、といった一定の制約を別とすれば)


  この文章で、Apemanさんはこう指摘されています。
  「台湾での戦争を日仏戦争(日本と外国であるフランスの戦争)と言うのは間違い。
   なぜなら台湾はフランスではないからだ」(ヴェトナムも同様)


  私の主張は以下の通りです。
  「台湾での戦闘を日台戦争(日本と外国である台湾の戦争)というのは間違い。
   なぜなら当時の台湾は外国ではないからだ」(下関条約で『国内』になっている)


  したがって、Apemanさんの「別とすべき一定の制約」
  によって「日台」という言葉は否定されています。
  つまり、Apemanさんご自身が「日台」という呼称を
  否定しているわけです。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090509/p2#c1258035443

このコメントは、彼が「日」と対になる相手として(国際的に承認された)主権国家しか認めないという前提をおかないかぎり、理解不能である。しかし(国際的に承認された)主権国家としての「台湾」が存在していなくても「台湾」が政治的なエージェントとして存在していることを、今日のわれわれは日々目にしているはずである。というか「日台戦争」に括弧書きして「(日本と外国である台湾の戦争)」としている時点で「日台戦争」という呼称の背後にある論理を理解するつもりがないことがさらさらない、ってことが丸わかりだが。
私の理解が誤りでなければ、「日台戦争」という呼称の背後にあるのは歴史を主権国家の論理で塗りつぶす発想への異議申し立てである。賭金がこのようなものであるかぎり、「当時の日本政府にとって“日台戦争”という呼称を用いる理由などない」とする史料を月に届くほどまでに積み上げようとなんの意味もないのである。問題なのは歴史を主権国家の論理で塗りつぶすことで見失われてしまうものの重要性であり、歴史を主権国家の論理で塗りつぶすような発想とそうでない発想とのどちらが私たちを幸せにしてくれるか、である。