「輔弼親裁構造」

もう半月ばかりも前のコメントへのレスポンスで恐縮ですが。

ただ、そうは言っても「現に存在した旧憲法」のもとで、必ずしも天皇の信頼のおける閣僚ばかりが
選任される状況でないなかで、いかように振舞っても後世の我々から非難されるような状況における、
天皇の「総攬者としての態度」というのは実に難しいものだと思います。
それは、そのような態度を強い、「責任者として不可避の責任」を取らせることになる旧憲法
致命的なエラーではあるのでしょうが、そこで済ませていいのかなというところに、まだ割り切れなさを
感じています。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100404/p1#c1271660987

「そこで済ませ」るとはどのようなこと(どのような論者のどのような主張)を指しているのかが判然としないので BigHopeClasic さんの感じておられる「割り切れなさ」の内実もよくわからないのだが、ここではまず「致命的なエラー」について。
重光葵張作霖爆殺事件(とその事後処理)を回想して「軍部を取締るためには主権者〔=天皇〕は軍部に命令せずして、軍部の進言を待って行動するという矛盾」が「軍部の取締まり」を不可能にしたとしている(『昭和の動乱』、中公文庫、上巻45頁)。この重光の回想を引いて永井和氏は次のように論じている。

 重光は、「立憲君主」として行動した昭和天皇に戦争責任なしと言いたいわけだが、核心に存在する矛盾が何であるかは、よく認識していた。ただし、彼の立場からすると、この矛盾はほとんど解決不可能に等しかったはずである。大江〔志乃夫〕は、それに対して「主権者として軍部に命令すべきだった」と主張し、そうしなかったがゆえに責められるべきだと言うわけである。しかし、私には、どちらも天皇制の「輔弼親裁構造」の本質を外して議論しているとしか思えない。
 重光の指摘した矛盾は、近代天皇制の「輔弼親裁構造」の基本的矛盾であり、ある一定の条件の下では、戦争の自己展開を防止することをまったく不可能にする。だからといって昭和天皇に責任がないということにはならないし、だいいち、憲法があるからといって、「輔弼親裁構造」の下での天皇を単純に「立憲君主」といってよいのかどうか、それがまず問題である。
 (中略)
 このような歴史的経緯は、戦前の制度全体をして一種の「無責任の体系」と化さずにはおかなかった。重光が指摘している矛盾がまさにそれなのである。それゆえ「受動的君主」を「立憲君主」と置換して、その責任を問わないことは、無意識の内に「輔弼親裁構造」の前提たる「君主絶対無責任」の論理の円環内に身を置くことを意味するにほかならない。いっぽう、大江のように「積極的能動的君主」たれと、立憲主義天皇親政論を唱えることも、それが無意識の内に戦前天皇制における天皇の「受動的君主」性を頭から排除している点では、「輔弼親裁構造」の把握に失敗しているというほかない。私にはどちらも受け入れられないゆえんである。
(『青年君主昭和天皇と元老西園寺』、京都大学学術出版会、437-438頁)

すなわち、旧憲法に(あるいは旧憲法下の政治体制に)「致命的なエラー」があるとすれば、それは「「責任者として不可避の責任」を取らせる」点にではなく、逆に君主の無責任が「無責任の体系」を生むことの方に、であろう。