「解く 蒋介石日記」(追記あり)

今年の7月にスタンフォード大が公開した蒋介石の日記(46年〜55年)をもとに、朝日新聞が明日27日から全14回で「解く 蒋介石日記」を連載するとのこと。26日朝刊では「蒋介石 素顔の日記」と題しそのさわりを紹介している。
松井石根が処刑された翌日の48年12月24日には「五十余年の中国侵略の結果で、対日国辱は清算された」という記述があるのみと紹介し、「重大な事案で必ず能弁になる日記の中で、不思議なほど淡々とした書き方が、かえって複雑な心境をうかがわせる」と評している。


追記
8月27日 第1回 「旧日本軍将校集め秘密組織」
引用されている日記の内容にこれといって目新しいことはないが、白団(旧日本軍将校による軍事顧問団)の生存者(97歳)に取材している。いったん復員した後、岡村寧次経由で声がかかって密航した、とのこと。


8月28日 第2回 「打算が生んだ「以徳報怨」」
蒋介石を語る際にしばしば言及される「以徳報怨」だが、サンフランシスコ講和条約の発効を控え、日本が中国、台湾との同時講和に路線変更するのを危惧したための政治的計算(「主権と国際的地位は一時の利益よりも重い」「堪忍袋の緒が切れそうな苦痛だったが」)としての側面があった、というこれもまあ当然のはなし。「以徳報怨」は戦後に日本側がつくった「神話」だとする家近亮子・敬愛大教授のコメントが引用されている。こうした見方が妥当だとすれば「以徳報怨」が戦後日本の戦争観、戦争責任観に及ぼした影響は? という問いを立てることができるだろう。あるいは日中間の認識ギャップという、戦前戦後を通じ近代の日中関係につきまとう問題の一事例として考えることができるかもしれない。


8月29日 第3回 「最大のライバル 毛沢東
54年の2月28日、「毛の死後に向けた党内の後継争いが起きている」という期待が記され、大陸上陸作戦を構想していた、と。


8月30日 第4回 「金への強い執着」
中央銀行の金塊を台湾に移送した件、などについて。


9月2日 第5回 「弾圧2・28事件「土地は武力で維持」」
研究者や台湾の市民にとっての最大の関心の一つではないかと思われる、2・28事件についての記述。「元凶とまで言えないが、軍の派遣を直接指示しており、事件に責任がないとは言えない」という台湾のジャーナリストの分析が紹介されている。


9月3日 第6回 「宋美齢への強い愛情」
タイトルのごとし。


9月4日 第7回 「反共同盟先取りの戦略眼」
吉田茂を「風見鶏の機会主義者」と評していた、とのこと。先日紹介した『昭和天皇マッカーサー会見』によれば、53年4月20日昭和天皇と会見したマーフィー駐日米大使は、蒋介石(直前に会談していた)が「共産主義者の最近の動向について昭和天皇と同様の危惧を表明した」と天皇に対し説明した、とのこと。昭和天皇の吉田への不信感と、蒋介石のそれとは見事に呼応している。吉田には日本が冷戦の最前線を担わずにすんだことを前提とした計算があったわけだが。


9月5日 第8回 「反米の矛盾と限界」
日記のあちこちにみられるアメリカ批判は、大陸中国の研究者にとって「意外」であったと紹介されている。日本の読者にとってはむしろ「意外」なのが意外、だろう。


9月6日 第9回 「最後の戦場 金門の攻防」


9月9日 第10回 「大陸反攻の夢」
54年の日記の記述などからも、大陸反攻の「実現を真剣に考えていた」ことがうかがえる、と。


9月10日 第11回 「維持の権力掌握」
「皮肉だが、蒋介石は敗走先の台湾で初めて、党と軍と政府を掌握する真の指導者になったといえる」、と。その背景として「敵対する内部の派閥が台湾撤退で一挙に拠点を失」ったことがある、と松田康博・東大准教授。


9月11日 第12回 「独裁者の素顔」
現存する日記は1917年から72年まで、とのこと。


9月12日 第13回 「愛される理由」
中国(大陸)における蒋介石再評価について、など。


9月13日 第14回 「暗部に触れずうそはなく」
日記という資料一般について問題になる、記述の信憑性について。特に蒋介石のような立場の人物であれば、ある時期から後世の読者の目を意識しはじめたとしても不思議はないし。記者の評価は2・28事件など「暗部」についての記述は少ないものの自分を「美化」した部分もみあたらない、と。つまり書いてある部分については信憑性が高いものの何について書いていないか、に留意する必要もある、ということか。
来年には56年〜72年分の日記が公開されるとのこと。