お返事

少し遅くなりましたが松尾さんから頂戴したお返事について。

ご理解いただけたと思われる点については省略して、3点ばかり。
まずはこちらからすると伝わり切らなかったように見える(あるいはきちんと伝わっているのかもしれないが、こちらとしては納得し切れない)点について。今回は菅談話への金子議員ほかの反応からはじまって松原議員の南京事件否定論や "THE FACTS" 広告へのコミットメントにもはなしが広がっていったような体裁になっているので、「後出し」的な印象を与えているやもしれず、その点は最初からすべての問題点を提示しなかったこちらのミスでしょう。しかし欧米諸国……と言ってしまうと条件が多様になりすぎてちょっとまずいので単刀直入にドイツを例にとった場合、ある政策の実現のために研究者やジャーナリストがホロコースト否定論者と手を組むという選択が社会に受け入れられるでしょうか? 時と場合によってはそれが起こりうるという可能性までは否定しませんが、少なくとも相当な物議をかもすであろうことは確かです。アメリカやフランスでも同様でしょう。そもそも極右政党以外の政党にホロコースト否定論者がいること自体が政治的なスキャンダルになるでしょう。もちろんその場合、“左翼だけが騒ぐ”のではなく保守政党も我れ関せずではいられないはずです。ところが日本の場合、長らく政権与党だった政党にも最大野党から与党に転じた政党にも南京事件否定論者がおり、研究者が否定論者の議員と「国民会議」を立ち上げてもそれが問題視されるのはネットの一部においてだけ、です。研究者やジャーナリストというのは一般市民よりも欧米と日本とのこのような知的風土の違いをよく知りうる立場にある(し、またそうであるべき)にもかかわらず、です。
このように指摘すると必ず「ホロコースト南京大虐殺とは違う」という反応があります。たしかに国家犯罪としての性質を考えれば両者には相当な違いがあります。しかしまず第一に、政治的なシンボルとしてであればホロコースト否定論と南京事件否定論とは等価とは言いえないにせよ、類似のものとして国際的には機能しています(もちろん欧米人の南京事件否定論への関心はホロコースト否定論へのそれに比べてずっと低いにしても、です)。第二に、歴史的な経緯により日本軍の戦争犯罪南京事件によって象徴されることになりましたが、もしジェノサイド的な性格がはるかに強い華北での燼滅掃討作戦(三光作戦)や石井部隊の人体実験が東京裁判でとりあげられ、日本軍の戦争犯罪のシンボルになっていたとすれば、「三光作戦否定論」「731部隊否定論」がいま以上に右派のキャンペーンの対象となり、三光作戦否定論者の国会議員を生み出していたでしょう。その場合には「ホロコーストとは違う」という言い訳は妥当性を一層失うこととなります。
ようするに、自民党にも民主党にも南京事件否定論者の議員がいて、その議員と公然たる協力関係を結ぶことを公言してもほとんどなんの反響もないこと自体、ドイツに比べれば日本が過去との対決についてヌルい圧力しか国際社会からかけられてこなかったこと、そして日本社会が――もちろんアカデミズムやジャーナリズムも――その環境にあぐらをかいてきたことの帰結であるわけです。「いつまで謝罪を……」どころのはなしじゃありません。南京事件否定論者と手を組んでもろくに問題にされないこと自体が問題なのであって、これは「いや、私自身は歴史修正主義を問題だと思っているから」とか「それは私の専門じゃないから」ですむはなしではない。この点は改めて強調しておきたいと思います。


第二に、次のようなご批判について。

 また率直に私情をもうせば、拙著の内容を紹介した文章に対して、その潜在的読者が訪れるであろうブログで、事情を知らない人にはそれが歴史歪曲主義の側に通じるように受け取られる形での批判がなされたことは、あまりありがたくないことではあります。

なんといっても“ダシにした”ことは確かですから、その点についてはお詫びいたします。2点だけ言い訳をするなら、冒頭で「松尾氏の本は未読なので」と自慢にならないことを断っておいたのはご著書に対する評価を含むエントリではないことを読者に了解していただくためであること、コメント欄でも松尾さんのご主張への評価に(読まずに)踏み込むような流れにならないよう留意したこと、となります。
ところで8月20日付けのエッセーで松尾さんは次のように書かれています。

ご紹介いただきありがとうございます。「中身はまっとうな本」だけど「伝え方」に違和感があるとのご主旨。

 本書が想定している読者は、不況を天災だと思っており、デフレってモノの値段が下がるからオトクじゃーん、と思っており、景気のいい悪いは自分とはあまり関係のない出来事だと思っている人だ。そんな人、いるのか?

とおっしゃっているのですが、残念ながらたくさんいらっしゃると思います。

私はそもそもデフレについて周囲の人間とはなしを交わす機会をそれほど有していませんから、「残念ながらたくさんいらっしゃる」という観察に異を唱えうる立場にありませんし、また素人考えでも「まあそういう人間もいるだろう」とは思いますが、同時に、今回「リフレ派批判=デフレ容認」と短絡してしまう傾向がリフレ派側にあることもまた明らかになったとは言えないでしょうか? 私が観察した限りにおいてですが、この一件において「デフレってありがたいじゃないか」「デフレだっていいじゃないか」という立場から議論に加わった人間は一人もいなかったと思います。もちろん、これはいくつかの問題についての関心をゆるやかに共有する者たちの間から出てきた主張のことですから、その傾向を直ちに一般化することはできません。しかし、現になされた発言を虚心坦懐に読めば「デフレ容認」論でないことは、さらにその大部分が「リフレ政策懐疑論」ですらないことは容易に理解できたはずなのに、反論として「デフレ脱却のメリット」「リフレ政策の効果」を執拗に説こうとする人が少なくなかったことは、私にとっては非常に興味深いことでした。


最後に、これは松尾さんに限りませんが、景気回復が社会の右傾化への対策にもなる、という主張が見られます。それを否定するつもりはさらさらないけれども、それを売り文句にするならばある種の人間はなおさらリフレ政策を推進しようとする人びとがレイシズム歴史修正主義に対してどういう態度をとっているのかに注目するだろうし、私もその一人です。例えば人権に関わるある問題に取組むことが好況時には容易になるとして、そのためには不況の時にもきちんとその問題に向き合っていることが必要です。hokusyuさんも指摘していたように不況時に「スルー」される問題は好況になっても「スルー」されるでしょう。その証拠に、戦後の何度かの好景気を苦もなく生き延びた問題をこの社会はいくつも抱えているからです。だから、好況になることに意味なんてないとはもちろん思わないけど、それを「不況時においてある問題をスルーする口実」にしていないかどうかには敏感であらねばならない、と思います。(松尾さんが「口実」にしているとは思いませんけど。念のため。)