南京事件を否定しようとして拉致問題への国際的な協力を拒絶する人

昨晩は面倒だったのでテキトーにあしらっておいたのですが、3月のこのエントリにコメントしてくれた人がいました。

大体ユダヤ人でもない、それも当時の人間からすれば孫の代の日本人が積極的にホロコースト
をあったと信じるというのがどれほど奇怪な事か。何か義理でもあるのだろうか。
しかも素朴な疑問をする人間をも人非人呼ばわりする。これってどう考えてもおかしい。
正直ホロコーストがあったかどうかなんてのは私には正直どうでもいい。だからそれが仮に本当で
あったとしても、何の義理もないユダヤやそのシンパから信じろと強制されたくもない。


そして、正直どうでもいいが、600万なんていくら何でも嘘じゃないのという素朴な疑問がある事
も事実である。本当に起こった事というのは、何も一次資料を読めとか言わなくてもちょっと聞けば
ありそうかそうでないか分かるものである。ホロコースト南京虐殺にはこれがない。聞けば聞く程
胡散臭さが増す。

ポイントは二つ。仮に非ユダヤ人にはホロコーストに関心をもつ「義理」などないのだとすると、非日本人には拉致問題になど関心をもつ「義理」もない、ということになるだろう。また、(蓋然性は非常に低いが)将来日本人がジェノサイドの対象となるようなことがあった場合、国際社会が関心をもって関与する「義理」もないということになろう。この人はアメリカや韓国が拉致問題を棚上げして北との関係改善を進めたとしても文句は云わないんだろうな、きっと。
もちろん、ホロコーストに関心をもつかどうかは「義理」の問題ではなく、それが人類にとって普遍性をもつ問題だからだ、という立場がもう一方にあり、これによればわれわれは国際社会が北朝鮮による拉致問題に関心をもつことを要求できる。と同時に、われわれはダルフールに関心をもつ義務を有することになるし、また国際社会が南京大虐殺従軍慰安婦に関心をもつことに対し「余計なお世話」とは言えないことになる。どちらの世界を望むのかは、われわれ次第である。


もう一点、ホロコースト否定論や南京事件否定論が「素朴な疑問」ではなくレイシズムや過去の否認といった意識に根ざしていることをそれこそ「素朴」に無視して「素朴」を称揚しているところ。「素朴」なんてのは自慢になることじゃないんだから。己れの狭隘な想像力からはみ出すからといって、現実の方を切り捨ててしまってもらっては困るんである。どうせこの手合い、スターリン毛沢東の犠牲者の数については「素朴」に通説を信じてるくせに。