“単に「知らないから勉強します」”はなぜ「知的に極めて真っ当」ではないか

http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/comment?date=20090323#c
cf. http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090323%231237780327
まず重要な点として、このエントリ以降の negative_dialektik氏の振る舞いはとても“単に「知らないから勉強します」”という意思の表明としては要約できないという問題があるのだが(つまり id:tari-G氏の「単なる読解力の問題」)、これについてはすでに hokusyuさんが指摘しているので割愛。まあひとことだけ言っておくと、「勉強」するまでは踏み込むべきでないところに踏み込んじゃったら「知らないから勉強します」だとは言えないよね、ということ。具体的には次のような一節だ。

 かかるアレルギーの抗体保持者は、歴史問題を純然たる学問的な事実を確定する問題として語ることが許せないのです。歴史問題は、政治問題化してしまうのです。ホロコーストの歴史的実態について再検討する必要がある、と口にしただけで、反ユダヤ主義者のレッテルを貼られてしまいます。南京での中国人の被害者の数も、中国共産党政府の主張する30万人とか40万人とかいう数字をそのまま受け入れなければ、大日本帝国軍国主義復活を目論む右翼分子とレッテルを貼られそうな勢いです。冷静に、歴史的に、事実を確定しようという学問的姿勢や努力は、政治的に圧殺されてしまいます。

「無知」と言いつつ一方的な偏見だけはしっかり身につけているわけである。


実のところ、tari-G氏も「単に「知らないから勉強します」というそれ自体は知的に極めて真っ当なもの」(強調引用者)と表現することによって暗に認める結果になっているように、(1)「知らないから勉強します」は個別のケースでは知的にまったく真っ当でないことがあるし、(2)「知的」にはともかく別の観点からはまったく真っ当でないことがある。前者の場合には「知的」な観点から批判されて当然だし、後者の場合別の観点(例えば倫理的観点)から批判されて当然だ。そうした批判を「修正主義として糾弾し、「丸ごと信じろ」「疑うな」と砲列をはるのは極めて素朴な全体主義」などと(なんら具体的なテクストに根拠をもたずに)誹謗することこそ、「真っ当」ではないと言うべきであろう。
もうこれは何度も言ってきたことなのだが、“なにも知らない”と自称する人間が教科書にも記載されているような学説とそうでないものとをまるで等価であるかのように扱うことが、特定のトピックについてだけとりわけ擁護されているという事実があるわけだ。例えば(おおざっぱな図式だが)意図派的なホロコースト理解と機能派なそれについて、「知らないから勉強します」と断ったうえで両者を暫定的に等価な「仮説」として扱ったとしても、誰もその人物を批判したりはしないだろう。「知らないから勉強します」という段階で通説とそうでないものとをあたかも等価であるかのように扱うのは、「専門家のいうことは一言一句疑わない」という態度と少なくとも同じ程度には、「知的に真っ当」でないものと言わねばならない。
また、ホロコースト否定論者(あるいは南京事件否定論者)でさえ否定しない一つの事実として、「被害を申し立てている被害者、および被害者遺族がいる」というものがある。この事実がホロコースト(あるいは南京事件)についての議論を倫理的に制約するのは当然のことだ。通常の刑事犯罪のケースで、被害を申し立ててきた被害者に対して警察が「あなたの言うことが正しいかどうかは調べてみなければわかりませんね」などと、「それ自体は知的に極めて真っ当な」ことを言ってよいだろうか? もちろん、虚偽の被害申し立てがなされることは現実にあるけれども、そうした疑惑を口にするのは「知らないから捜査します」という段階ではなく、それなりの捜査が行なわれた後でなければならないし、またそれで十分なのである。「推定無罪の原則」は*1「知らないから捜査します」という段階で被害者の申し立てを“括弧でくくる”ことなどしなくても、守ることができるのである。被害の申し立てに対してこのような態度をとらずして、そもそもイスラエルを批判する足がかりなど得られるのだろうか?(ここでの D_Amonさんのブクマコメントを参照されたい)。
次に引用するのは、ジョン・ドミニク・クロッサンの『誰がイエスを殺したのか 反ユダヤ主義の起源とイエスの死』(青土社)について以前に書いたエントリの一部。

本書のもうひとつのポイントは、歴史家の「倫理」をめぐる著者の態度である。誰がイエスを殺したのか? イエスの死の責任はローマ当局が負うべきなのか、カイアファらユダヤ人エリート層が負うべきなのか、それともユダヤ人全体が負うべきなのか。今日の聖書研究者、イエス研究者で福音書の記事が100%真実であると主張する者はいない(そもそも福音書間に矛盾があるのでそんなことは不可能であるわけだが)が、他方で100%でっちあげだと主張する者もいない。ではどこからどこまでが「記憶された歴史」であり、どれほどが「歴史化された預言」(クロッサンの表現)なのか。ピラトが押印した処刑命令書や、イエスの処刑を望むユダヤ人民の嘆願書の束といったものが発掘されでもしないかぎり、この問いに100%確実な答えを出すことはできない(文書には偽造の可能性があるのだから、100%確実ということはあり得ない)。クロッサンは主たる論敵ブラウン(ダン・ブラウンのことではない(w )の「〔福音書が描くこうした情景は事実として〕あり得ないものではない」「不可能ではない」と言った語法を厳しく批判する。キリスト教反ユダヤ主義が、ホロコーストで頂点に達するような血腥い歴史を生み出した以上、“100%確実なことは言えない”という相対主義を隠れ蓑として“より妥当な仮説”を拒否してはならない、というのである。クロッサンによれば、福音書の受難物語は完全に「歴史化された預言」である。イエスが処刑されたのは事実だが、おそらくは裁判もなく、弟子たちが処刑を見守ることもなく、死体は埋葬されることもなく打ち捨てられたに違いない、という。イエスの死の責任はユダヤ人にある、という福音書の主張はプロパガンダであって歴史的事実ではない、と。

ここで問題にされているのは反ユダヤ主義の正当化に利用されてきた福音書の記述がなんらかのかたちで史実に根差しているのかどうか、である。クロッサンが批判しているレイモンド・E・ブラウンはマタイ福音書にある「その血の責任は、我々と子孫にある」という特に悪名高い一節について「そこには、歴史上の小さな核のようなものがあったのかも知れない。だが、その核についての厳密な探求は、我々の能力を超えている」と述べる(クロッサン前掲書、12ページより孫引き)。これは tari-G氏的な意味で「それ自体は知的に極めて真っ当な」態度である。しかしだからといって特定の文脈において、あるいは「知的」以外の観点から見た場合に「極めて真っ当」であるかどうか。クロッサンが問うているのはそのことである。クロッサンの主張(特にペテロ福音書の位置づけ)が結果として間違いであったとしても、クロッサンの問題提起が意味を失うことはない。

*1:史記述をめぐる問題にこの原則をそのまま持ちこむことが不当であることについては、ここでは詳述しない。