『なぜ人はニセ科学を信じるのか』の誤訳

マイクル・シャーマーの『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川文庫、I・II、原題は Why People Believe Weired Things)は疑似科学批判の入門書としてよく読まれている本で、しかも批判対象の中に歴史修正主義ホロコースト否定論)が含められているという点で興味深い本でもあるのだが、先日東京裁判判決の和訳を問題にしたことでこの本に誤訳があることを思い出したのでメモ。
ホロコースト否定論を扱ったII巻の186ページ。「目的論派と機能論派の議論」とあるがこれは通常「意図派と機能派」と訳される。「機能論」はまだしも、「目的論」は teleology の訳語として定着しているので、intentionalist の訳としては間違い。もう一つは185ページ。

(……)一九九六年、ダニエル・ゴールドハーゲンが『ヒトラーお抱えの死刑執行人たち』の中で、「ふつう」のドイツ人や、非ナチス党員はホロコーストとは関係がないと主張したことに対する騒ぎは、ホロコースト史家たちも、何が、いつ、なぜ、どのようにして起こったのか、正確に把握などしていないという事実を証明している。

これは南京大虐殺の実態に不明なところがあるという理由でそれを否認したり南京事件否定論を許容したりする態度のバカバカしさを示す重要な議論なのだが、ゴールドハーゲンについてご存知の方なら原文にあたるまでもなくわかる通り、重大な誤訳。原文は次の通り。

The brouhaha over Daniel Goldhagen's 1996 book, Hitler's Willing Executioners, in which he argued that "ordinary" Germans and not just Nazis participated in the Holocaust, is testimony to the fact that Holocaust historians are anything but settled on exactly what happened, when, why and how.

ゴールドハーゲンのこの本の邦訳が出たのは2007年になってからなので『普通のドイツ人とホロコーストヒトラーの自発的死刑執行人たち』という邦題と違っているのはしかたないが、"Willing" を「お抱え」と訳してしまうとゴールドハーゲンの主張のポイントが歪められてしまう。これは後続の「ナチだけではなく“普通の”ドイツ人がホロコーストに関与した」をまるで逆の意味に誤訳してしまったことから派生した誤訳かもしれない。
ついでに言うと、ここでのシャーマーの紹介のしかたはややミスリーディング。ホロコーストに関与したのがナチだけではない、ということはゴールドハーゲンのこの本以前から定着していた認識であって、論争になったのは第101警察予備大隊のメンバーのような「普通の」人間がなぜホロコーストに加担したのか、という点だったから(ゴールドハーゲンの本の表題の "Willing" はまさにこの論点に関する彼の立場を表現している)。