「池田信夫の捏造」完全版

このエントリは以下のエントリを前提とし、それらとあわせて一つの主張をなすものですが、読む順番としてはまずこれを読んでいただいてかまいません。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20111221/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120626/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120812/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120825/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130702/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130719/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130721/p2
池田氏の人権意識の希薄さについては別に批判したエントリもありますが、ここでは省略します。


さて、問題になっている1991年8月11日付け朝日新聞朝刊の記事と、その記事をもとに池田氏が何を主張しているかについては、こちらで必要な事柄がすべて引用されておりますので、必要に応じてそちらをご参照ください。ポイントはこの記事において「親に40円でキーセンに売られた」と書かれていなかったことが意図的かつ(こちらの方がより重要ですが)ミスリーディングな隠蔽であるのかどうか、池田氏の表現を用いれば「誤報ではなく意図的な捏造」であるかどうか、です。


※反論1:「キーセンに売られた」ことと「日本軍慰安婦として強制連行された」こととは矛盾しない
「日本軍慰安婦として強制連行された」という主張と矛盾するような事柄、例えば「自ら思いついて日本軍の占領地に向かい、慰安所に飛び込んで職を求めた」といった経歴があるのにそれを隠蔽したというのであれば、それは確かに「捏造」の名に値するでしょう。しかしキム・ハクスン(金学順)さんは日本軍「慰安婦」になるつもりでキーセン学校に通ったわけではありません。したがって、彼女の個人史において「キーセンに売られたこと」と「日本軍慰安婦にされたこと」の間にはきっぱりと断絶があります。そして訴訟の対象になっているのは当然ながら後者の方です。訴訟と関係のないエピソードを省略したら「捏造」になるのでしょうか? そう、実は池田氏は「キーセンに売られた」ことが訴訟にとって無関係ではない、重要だ、と思い込んでいるんですね。日本の裁判所を舐めきった話なのですが、これについては後述します。


※反論2:他紙だって「キーセン」云々は報じてない
1991年12月6日にキム・ハクスンさんらが訴訟を提起した際の読売新聞と毎日新聞の報道をごらん下さい。


この記事はキム・ハクスンさんの名前を出していませんが、「アイ子」というのは彼女が「慰安婦」時代につけられた源氏名です。「キーセンに売られた」ことは書かれていません。


こちらも同様です。「キーセンに売られた」ことは朝日の植村記者だけが知っている秘密だったのでしょうか? いやいや、そうじゃありません。なぜなら、「キーセン」の件はこの日提起された訴訟の訴状にちゃんと書いてあるからです(後述)。ひょっとして、読売新聞の記者も毎日新聞の記者も「妻が韓国人」だったのでしょうか? ……バカバカしい。


※反論3:そもそもキム・ハクスンさんの生い立ちは詳しく報じられてない
1991年8月11日の記事で日本軍「慰安婦」にされる以前のキム・ハクスンさんの生い立ちに触れているのは「女性の話によると、中国東北部で生まれ」というフレーズだけです! 書かれていないことばかりじゃありませんか。この日の記事だけじゃありません。提訴を伝える91年12月6日夕刊の記事は「慰安婦」にされる以前のことをなにひとつ伝えていません。元「慰安婦」の人々が初めて日本の法廷に立ったことを伝える翌92年6月1日夕刊の記事も同様です。生い立ちを詳細に伝えておきながら「キーセンに売られた」ことに触れなかったのならともかく、生い立ちについては事実上何も伝えていないのに「キーセンに売られた」ことだけは書いたとしたら、その方がよほど不自然です。すでに述べたように訴訟の対象となっているのは彼女が日本軍「慰安婦」とされて以降の事柄であり、報道がその部分に集中するのは当然のことです。


※反論4:「キーセンに売られた」ことは秘密でもなんでもない
池田氏も述べているように、訴状には(「売られた」という直截な表現こそ用いられていませんが)「キーセン」云々に言及している箇所があります。

(http://www.awf.or.jp/pdf/195-k1.pdf /p.51)
原告団はマスメディアに対して当然訴状の写しを配るでしょうから、読売や毎日の記者だってこの事実は知り得たはずです。にもかかわらず、報じられなかった。文字数の制約があるなかあえて盛り込むだけの価値を見出さなかったからです。


※反論5:「訴訟を有利にするために」という邪推はバカ丸出し
裁判官が読む訴状には「キーセン」云々と書いてあるのに、提訴の半年近く前の記事でそれを伏せたからといって、訴訟にどんな影響があるというのでしょうか? 池田氏は日本の裁判官を途方もない間抜けだと思っているのでしょうか? あるいは、「キーセン」云々を知らない一般市民が裁判所に圧力をかけることを期待したのだ、と言いたいのでしょうか? だとすると裁判官をヘタレ扱いし過ぎなうえに、植村記者を間抜け扱いし過ぎです。朝日一紙が伏せたところで、他紙が報じたらどうするつもりだったというのでしょう?
実際のところ、日本の裁判所はどのような判断を下したのでしょうか。ご承知の通り、損害賠償の請求そのものは却下されていますが、一方で東京高裁は「軍隊慰安婦関係の控訴人ら軍隊慰安婦を雇用した雇用主とこれを管理監督していた旧日本軍人の個々の行為の中には、軍慰安婦関係の控訴人らに軍隊慰安行為を強制するにつき不法行為を構成する場合もなくはなかったと推認され」とか「軍隊慰安婦関係の控訴人らに対する旧日本軍の措置に強制労働条約及び醜業条約に違反する点があった可能性は否定できない」などと判断しています。「キーセンに売られた」ことにひとことも触れることなく、です。「訴訟を有利にするため」というのは的外れもいいところの邪推です。(実のところ、この余計な邪推をしていなければ、池田氏のエントリは悪質なプロパガンダとしてもっと有効に機能し得たでしょう。)


※反論6:まとめ=ゲスが自分のゲスさを他人に投影しているだけのこと
「反論1」のところでもほのめかしておきましたが、池田氏の捏造の核心にあるのは「『キーセンに売られた』ことは隠すに値する重要情報だ」という勘違いです。この勘違いは決して偶然に生じたものではなく、彼がセクシストであり歴史修正主義者であることと密接に結びついているものです。
訴状によればキム・ハクスンさんがキーセン学校に通いはじめたのが数えで14のとき、日本軍「慰安婦」にされたのが同じく17の時ですから、「キーセンに売られた」ことと「慰安婦にされた」こととは時間的にもはっきりと隔てられた、独立の出来事です。親にしても軍「慰安婦」にするつもりで売り飛ばしたわけではありません。ここからがセクシストな歴史修正主義者には伝わらないかもしれない部分なのですが、当時のキム・ハクスンさんが「キーセンに売られる」ことの意味を了解しており、それゆえ売春することについては同意*1していたか諦めていたとしても、だからといって日本軍「慰安婦」にされることまで承知したことにはならないのです。その意味で、彼女は間違いなく日本軍「慰安婦」になることを強制されたのであり、強制売春は当時においても不法だったのです。日本の裁判所が「キーセンに売られた」という事情を無視したのも当然です。
ではなぜ、池田氏やその支持者は勘違いしたのでしょうか? 彼らがこう考えているからです。「悪いのは女を売春婦にしたやつで、すでに売春婦になった女をどう扱おうが客の勝手だ」、と。そう考えるからこそ、親によって「キーセンに売られた」という事情は日本軍を免罪する決定的な事実だ、などと勘違いできるのです。そして池田氏らは日本の裁判官もそう考えるだろう、と思っているわけです。東京高裁はかつてホテトル嬢の被告人に対して「被告人の性的自由及び身体の自由に対する侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論じることはできず、相当に滅殺して考慮せざるをえない」という判決を出した前科がありますので池田氏の期待にも一理はあるかもしれません。しかしながら、これはいろいろ事情はありながらも結果として被告人が被害者を刺殺したという事件についての判決なのであって、「お前はすでにキーセンに売られていたのだから、黙って強姦されていればよかったのだ」などというゲスな発想はさすがに日本の裁判官たちにはなかったわけです。


これで満足ですか、id:Capricornus

*1:この同意が法的には無効であることについての議論はここでは省略します。