「道義的責任」の引き受けが「法的責任」の否認の隠れ蓑でしかないケース

大沼保昭氏は『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』(中公新書)においてアジア女性基金への批判に応え、次のように反論していた。

(……)「日本政府が道義的に責任を認めるだけでは十分でない、法的責任を認めることが国家として責任を認めることになる」という主張は、暗黙のうちに「国家の責任のあり方として、法的責任の方が道義的責任より価値がある」という価値序列を想定している。だが、法的責任とはそんなに価値あるものなのだろうか。いったい誰がそういう序列を決めたのだろうか。
(157-158ページ、ボールド体は原文では傍点。)

しかし「責任を痛感します」と口にしさえすればそれ以上具体的な行動を義務づけられない「道義的責任」の引き受けが、法的責任の否認に利用されることがしばしばあることを、橋下徹大阪市長が例証してくれている。

 大阪市立桜宮高校(同市都島区)でクラブ顧問の体罰後に自殺した生徒の遺族が市を相手取り、損害賠償訴訟を起こしたことを受け、橋下徹市長は11日、「大阪市の教育行政は誤っていた。遺族へのおわびの気持ちを持ち続ける」と改めて陳謝した上で、「道義的責任と法的責任は別。ご遺族には申し訳ないが、法的な話は因果関係を含めて司法に判断してもらいたい」と述べた。市役所で記者団の質問に答えた。
(後略)

大沼氏はこの生徒の遺族にも「大阪市はより価値がある道義的責任を認めたのだから、法的責任を追及するのは止めてもいいじゃないか」とおっしゃるのだろうか?


追記
id:tnishimu

法的責任は司法などの第三者が判断するものだから道義的責任を引き受けるんでしょう。 私に法的責任があるから自己判断でブタ箱行ってきますって話にはならないでしょ。 2013/12/15

いやいや、刑事事件の犯人が自首するとき、彼(彼女)は自分の「法的責任」を認めてるでしょ? あるいは罪状認否で「検察官の言う通りです」と有罪を認める時、とか。裁判所がそれをそのまま追認するかどうかは別として、「自分の法的責任を認める」ことはできます。
この場合、橋下発言は市が「体罰と自殺の因果関係」について争うことを示唆しているわけですが、その点について(あるいは「教諭に対する市の監督義務」など争点になり得る点について)争わない、という選択肢も市にはあるわけです(まあ賠償額については、公金を支出することになるわけですから、争うことがある程度正当化されるかもしれません)。そうすれば訴訟は短期で決着することになり遺族の負担も減りますし、市も訴訟費用をいくらか節約することができます。「自己判断」で法的責任を引き受けることは可能なんですよ。