“東中野先生、それじゃアポロ陰謀論と同じです!”

この記事はこちらの続きです。

「不覚の「南京占領」研究 : 法廷論争を十年ぶりに振り返る」ないし「南京「占領」研究の盲点 : 法廷論争を11年ぶりに振り返る」の第5節では、日教組の訪中団が1985年に聴取した夏淑琴さんの証言がとりあげられています。彼が噛みつくのは「私は2⼈の妹をつれて、隙をみて逃げだし、死体の⼭の中に埋もれて15⽇間かくれていた」という箇所、および「意識をとりもどして 今でも脳裏にやきついているのは、空地といわず私の周囲は死体の⼭で埋まり、それがガソリンをかけられて無残な炎に包まれていたことであった。」という箇所です。

第一にマギーフィルムでは「古い敷布の下に隠れていた」とされていたのにこちらでは「死体の⼭の中に埋もれて」となっていることに文句をつける東中野センセー。しかしちょっと考えればわかることですが、「古い敷布の下に隠れて」と「死体の⼭の中に埋もれて」は両立します。いくつもの死体が放置された家のなかで敷布に隠れていたのなら、ある時には「古い敷布の下に隠れて」と語り、また別の時には「死体の⼭の中に埋もれて」と語ってもまったくおかしなところはありません。

第二に夏淑琴さんが意識を取り戻したときの記憶です。

 このように、死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていたという事件を、南京城内の事件として誰が指摘できるでしょうか。かと言って、証言の信憑性は疑いようもありません。とすれば、証言者は南京「城内」の「新路口5」(本書74頁24行目)では なく「城外」で起きた事件に遭遇していたのでしょう。(後略)(『歴史認識問題研究』第4号、78ページ)

どうです? このインチキ。まあこれがインチキではなく天然だとするとそれはそれで東中野センセーの研究者としての資質に疑問符がついてしまうのですが。

夏淑琴さんはガソリンが「15 日間も」燃えていたなどと証言しているでしょうか? していませんね。意識が戻った時に強く印象に残ったこととして、燃やされる死体の山に言及しているに過ぎません。そしてまったく理由も述べずに「証言の信憑性は疑いようもありません」と断言し、こう推論するわけです。

・「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていたという事件」は「南京城内」の事件ではありえない

・しかし「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていた」という証言の信憑性は疑う余地がない

・ゆえに夏淑琴さんが遭難したのは南京城外である(=マギーフィルムの少女ではない)

しかし上で見たようにそもそも夏さんは「死体の山にかけられたガソリンが15 日間も燃えていた」などとは証言していないわけで、この推論は前提を欠いています。

3点目は連れて逃げた妹の数が一致しない、という指摘です。ここでの東中野センセーの議論で真面目な検討に値するのはここだけです。事件当時の夏さんの年齢を考えると、共に生き延びた妹の数を間違えることはあまりありそうにないこと、に思えるからです。

しかし東中野センセーは自分の想定に反する可能性の検討を完全に放棄しています。彼が無視した可能性のなかでも蓋然性がかなり高いのが「通訳のミス」です。特に北京語を話さない証言者の場合、書き起こした後のチェック作業が入念に行われていなければ、どこかに翻訳上のミスが入り込む可能性はかなり高いと考えるべきです。

もちろん東中野センセーの仮説が別の部分で強い説得力を獲得している場合、具体的な根拠もないのに「誤訳」の可能性を強く主張することはできません。しかし事実はまったく逆で、彼の仮説の前提はデタラメです。だとすれば、これが「誤訳ではない」根拠を東中野センセーが示さねばならないでしょう。

 

この論考で彼が一番強調したかったのは第8節かもしれません。東京地裁判決の「学問研究の成果というに値 しないと⾔って過⾔ではない」が確定判決である東京高裁判決では削除されていることを指摘し、地裁の裁判官を呪っています。「そもそも或る研究が学問研究にあたいするかどうかを判定するだけの専門知識が──どの研究分野も極めて細分化され深化しているだけに──裁判官 にあるとも思えません」と(『歴史認識問題研究』第4号、81ページ、原文のルビを省略)。しかしそれをいうならば東中野センセーに専門家としての裁判官が下した「判決」を判定するだけの専門知識があるのか? も問われることになってしまいます。現に彼はその前の7節で法的知識の危うさを露呈しています。

 このように全面的に改竄された無声映画の「映画解説」は歴史学上の史料とはなりえ ません。刑事訴訟法上の物的証拠ともなりえず、字幕説明に基づいて抜本的に修正され ねばならないのです。無声映画とその「字幕説明」が正しいとすれば、それが事件の存在と様態を示す「唯一無二の物証」に近かったからです。(『歴史認識問題研究』第4号、80ページ、原文のルビを省略、下線は引用者)

まず刑事訴訟法に「物的証拠」なる概念は登場しません。俗に言う「物的証拠」はそれに関する検証や鑑定を記した書面として証拠となります(ただし供述者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成されたものであることを供述することが条件)。また彼が破れたのは刑事裁判ではなく民事裁判ですが、民事では刑事に比べて証拠規則がゆるく、刑事では証拠にできないものでも民事では証拠になる、ということはよくあります。「改竄」云々の主張についてはこれまで検討してきたものと大差ないので、省略します。

 

最後に、『亜細亜法学』版にはなく『歴史認識問題研究』版で新たに加えられた「付説――それは偽造フィルムであった」。今回始めて後者に目を通したので「おっ」と思ったのですが、中身を読んで爆笑しました。「アポロは月面着陸していない」という陰謀論がありますが、その提唱者たちがやっているのとまったく同じ間違いを犯していたからです。