『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』


笠原十九司氏の『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店)が(1)「「百人斬り競争」を〈賞賛〉した時代」(帯より)について、また(2)否定派の「百人斬り競争など不可能」という議論について、歴史学的にアプローチしたものであるのに対して、こちらはいわゆる「百人斬り」訴訟により重点をおいた構成になっている。『「百人斬り競争」と南京事件』では訴訟の争点その他について詳説されてはいないので、相互補完的な関係にあると言えるだろう。また、訴訟の一方の当事者*1による共著ということで、『百人斬り裁判から南京へ』(稲田朋美、文春新書)などに対抗するものと言うこともできる。
また書名では「百人斬り」だけが前面に出ているが、昨年高裁で原告勝訴の判決がでた夏淑琴さん名誉毀損訴訟についても1章が割かれている(ただし、ページ数的には「百人斬り」訴訟の3分の1ほど)。目次は次の通り(ページ数は省略)。

はじめに(星徹)


第1章 「百人斬り競争」の史実
星徹 訴訟で明らかになった「百人斬り競争」の史実
渡辺春己 「百人斬り」裁判の争点と本多側の主張
本多勝一 「百人斬り競争」訴訟の被告として


第2章 夏淑琴さんの被害事実と名誉毀損訴訟
星徹 南京大虐殺の「生き証人」夏淑琴さんをニセモノ扱いのデタラメ
渡辺春己 夏淑琴名誉毀損訴訟の内容と判決
本多勝一 夏淑琴さんへの初取材と、歴史改竄派による「ニセ被害者」扱い


第3章 南京大虐殺と日本の将来
本多勝一 事実とは何か、ジャーナリズムの責任とは何か
渡辺春己 南京事件“否定派”の特徴、そして歴史的事実の共有のために


第4章 資料
(以下略)

「百人斬り」訴訟については原告側代理人が率先して裁判の争点と事実認定についてミスリーディングな主張を書きまくっているので(そして産経ならまだしも読売新聞までがそれにのせられた社説を書いたりしているので)、やや遅れをとったとはいえ原告サイドの主張が書籍メディアで明らかにされることには意味がある。本書の主張の妥当性については私なんかが云々するまでもなく裁判所が判断を下しているわけであるが、分量としては全体の3分の1ほどを占める第4章が両裁判の各審判決(最高裁判決以外は抜粋)などの資料を収録しているので、読者は裁判所が結論を導くために各証拠をどのように評価したのか、を自分で確認することができる。どの判決も既に全文ないし要旨をネットでは読むことができるが、なにぶん判決文というのは独特の文体、用語法、構成をもつのでディスプレイ上で読むのはつらい、という人も少なくないだろうから。


もっとも、裁判といっても人間のやることであるから、あまたの判決の中には不当な判決とか微妙な判決がある、とは言っておかねばならない。しかし敗訴した側の代理人が「前述のとおり良識ある日本人なら『日本刀で一〇〇人以上の中国人を斬り殺す』などということがいかに荒唐無稽な作り話であるかを一瞬にして見抜くことができるはずであるが、原審の裁判官らはその荒唐無稽さが理解できないくらい目が曇っているのか、(…)結果として極めて理不尽な結論を出した」などと、裁判の争点を無視した挑発をした*2のは、勝ち目がないことを見越した政治的パフォーマンスとしか言いようがあるまい。


証言の評価というのは裁判のみならず歴史学においても争点となりうる問題であるが、同時に歴史修正主義がつけ込もうとするポイントでもある。入念に準備を行なった証人の証言ならともかく、多くの証言は曖昧な点や記憶違い、言い間違いなどの“瑕”をもっているからである。この点に関して重要と思われる箇所を二カ所ほど紹介しておこう。

 第2章を見れば分かるように、私が一九八七年に夏さんに取材した際の証言と、星徹氏が二〇〇二年に取材したものとは、細部で異なる部分も確かにあるが、事件の核心部分は大筋では一致している。取材した時期も取材者も異なれば、細部の違いが出てくるのはむしろ当然のことなのだ。
 もし東中野氏の主張するような“根拠”で夏さんをニセモノと判断されるのならば、大多数の証言者はニセモノに仕立て上げられてしまうだろう。広島や長崎で被爆した被害者も、東京大空襲の被害者も、被害直後の証言、一〇年後の証言、そして現在の証言を比べてみれば、同一人物でも証言の細部に違いが生じることなど当然過ぎて、テープレコーダーのように同じことを繰り返せる人など誰もいないだろう。(…)
(…)
 「聞き書き」における証言者の中には、自分が体験したことを誇張したり、都合のいいように歪曲したり、または他人から聞いた話をあたかも自分が体験したかのように語る人も、確実に存在する。そういった証言者に対しては、取材者が的確な質問を繰り返す、つまり証言の矛盾点を精査することによって、事実に基づかない証言をあぶり出すことができるはずだ。これまでの私の取材でも、「事実関係に矛盾がある」「これはちょっと危ない」と判断したケースはあり、そういった場合は決して「証言」として採用することはなかった。
(…)
 夏淑琴さんへの初取材は一九八七年に南京で行なったが、先に述べた「聞き書き」の手法に従った。まず夏さんにひと通り被害・目撃体験を証言してもらい、その証言に基づいてさまざまな角度から検証するために質問を繰り返した。そのことによって、最初は不完全だった「風景」が、徐々に完成されていった。夏さんの証言に基づいて家の中の間取りや当時の情景を矛盾なく「描く」ためには、多くの時間と労力が必要だった。当時でも南京大虐殺から五〇年も経過していたので、彼女の記憶違いや忘却は確かにあったが、事件の核心についての証言は一貫していた。もし夏さんがニセ被害者で、被害・目撃証言がつくり話であったとしたら、このような「聞き書き」の検証に堪えることはできず、その「ウソ」がばれていただろう。そういったことからも、夏さんの証言は実体験に基づいている、と断言できるのだ。
(129-131ページ、本多執筆部分)

証言を「さまざまな角度から検証」することと「難癖をつけること」とは異なる。なにかを事実として認定させないことが目的なのであれば、些細な瑕を理由として不都合な証言を片っぱしから拒絶すればよい。実に簡単だ。しかし事実を明らかにすることを目的にするならば、知覚〜記銘〜保持〜想起〜証言という全プロセスを通じていかなる脱落も付加も歪曲もおこさない人間など存在しない、という事実と折り合いを付けながらやっていかねばならない。ここで批判されている東中野修道と、かつて本多氏の取材に噛みついた山本七平に共通しているのは、「証言者の発言を矛盾のないものとして理解しうる解釈法が存在しているのに、そのことは完全に無視したうえで、ことさら発言が矛盾をはらむように見える解釈だけを強調する」という手法である。前者が bayonet という動詞を「銃剣で刺し殺す」ではなく「銃剣で刺す」と解する可能性を故意に無視したこと、後者が「中山門に取って返した」を「中山門から外には一歩たりとも出ていない」とのみ解して「門の外からも見てみた」可能性を故意に無視したこと、である。
ちなみに、本多氏が07年に刊行した『南京大虐殺と日本の現在』(金曜日)には、家永教科書裁判で本多氏が原告側証人として証言した際の記録が収録されていて、25ページから32ページあたりに上記「聞き書き」の方法論をめぐるやりとりがある(もちろん、本多氏の取材結果の信憑性に関わる問題だからである)。特に30〜31ページには見開きで取材ノートの2ページ分のコピーが掲載されており、取材プロセスの一端がうかがえてなかなか興味深い。
もう一カ所。渡辺弁護士が否定派の資料評価法を批判した部分。

 村松俊夫氏も、資料間の些細な食い違いを“根拠”に李秀英さんを“ニセ被害者”扱いした。しかし、残された資・史料が細部まで一致していることなどあり得ないといってよい。資料間の食い違いが存在するからこそ、史料批判が不可欠なのである。
(…)
 現に李秀英名誉毀損裁判の判決では、「(村松俊夫は)対象資料の性質に応じた批判・検討の作業を十分行わなかった」とし、「本件書籍は、資料間に表面上の食い違い・変遷があることから、推理あるいは推測という表現形式で本件適示事実を記述したものであり、そのような推理あるいは推測に十分な合理性のないことは、資料を批判的に検討し、かつ合理的に判断できる読者の多くにおいては、容易に理解できるものである」と断じられている。
(135-136ページ)

ここで問題にされているのは『「南京大虐殺」への大疑問』(村松俊夫、展転社)において、李秀英さんに関し「南京軍事法廷、記事のインタビュー、映画撮影、日本の裁判所と、証言のたびごとに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠であろう」などと記述したことが李さんの名誉を傷つけたとして著者と出版社を相手に起こされた訴訟(最高裁で原告勝訴が確定)のこと。夏淑琴名誉毀損訴訟とあわせ考えれば、ふだんから細部に曖昧さや記憶違いなどをはらむ証言を扱い慣れている裁判所には表面的な食い違いを理由に証言者を嘘つき呼ばわりする手法など通用しない、ということがよくわかる。これは新本館で着手している「自白の研究」とも関わることだが、大切なのは「証人が実体験を話しているのだという前提に立つと説明がつかないような齟齬や矛盾が証言にあるかどうか」を吟味することである。証人が「中山門から外にでて捕虜殺害の様子を見た」と言っているのに、その証言内容を吟味すると「門の外からは見えるはずだが想像では語れないようなこと」がなに一つない、といった場合にはその証言の信憑性に疑いをもつ十分な理由がある。しかし単に「中山門に取って返した」とだけ書いてあって、その後門の外からでなければ見えないような情景が回想されていれば、「明示的には書いていないけれど門の外にも出たのだな」と考えればすむのである。

*1:本多氏は言うまでもなく被告の一人、渡辺氏(弁護士)は被告代理人、星徹氏(ルポライター)も本書の記述によれば証拠収集に協力している。

*2:控訴審での第二準備書面中、訴訟指揮により陳述から除外された部分。本書70ページ。