「道義的責任」のインチキ

秦郁彦と(日本軍「慰安婦」問題で)肩を並べて登壇した大沼保昭氏にせよ、ネトウヨ顔負けの戦後史観を『SAPIO』誌上で開陳した*1井上達夫氏にせよ、「アジア女性基金」擁護派ってほんと歴史修正主義に甘いですよね。
小林よしのりを看板にした雑誌を媒体に選べちゃうという時点で、「道義的責任」論(=日本が法的責任は否認しつつ道義的責任を認めたのはすごいことなんだ! という主張のことをここではこう呼ぶことにします)の欺瞞性を自ら明らかにしたも同然だと思います。
「道義的責任」って、アジア女性基金を通じて「償い金」を渡したらそれで完了、ってものなんでしょうか? 性暴力被害者に金を渡したあとで「お前は同意しただろ」とか「お前もまんざらじゃなかっただろ」*2と言い放つなら、それって「道義的責任をとった」と言えるのでしょうか? いや、むしろ「金で口封じをしようとした」と言われるに違いありません。しかし「道義的責任」論者は、日本の右派の同じようなふるまいに実に寛容です。
従来、「閣僚」と「ただの国会議員」という立場を使い分ける歴史修正主義的政治家というのは珍しくありませんでした。閣僚として「南京事件マボロシだった」と言えばクビが飛ぶけど、ただの議員ならちょこっと新聞種になっておしまい、というわけです。しかし安倍総理の場合、総理在任中に「慰安婦」問題否認論を口にした、という意味でやはり自民党の政治家の中でも突出していると思います。こういう人物が首相をやっている時に「日本は道義的責任をとった、すごい!」などと言えてしまう人物の説く「道義」なるものに、私は道義的な価値を見出すことができないですね。

*1:その内容についてはすでに scopedog さん法華狼さんが批判しておられますので、屋上屋を架すのはやめておきます。

*2:驚くべきことに、いまやフェミニストと呼ばれる人びとがこのような主張を含む書籍を激賞していますが。

恥辱だらけの「戦後70年」

空疎な「戦後70年安倍談話」、世界文化遺産ユネスコ記憶遺産をめぐる醜態、地方自治体レベルでは強制連行被害者追悼碑などに対する反動的な企て……といかにも安倍内閣を選んだ日本社会に“ふさわしい”戦後70年目の一年は、まるでダメ押しのような恥ずべき知らせによって締めくくられることとなりました。実に“念入りに仕上げられた”戦後70年であったと言わざるを得ません。このような事態にきちんと抗えなかった我が身の無力さを恥じるばかりです。

歴史修正主義への屈服の見本

リンク先の記事を要約すると、以下のようになります。
横浜市中区の根岸外国人墓地入口に掲げられていた英文の案内板にあった「第2次大戦後に外国軍人軍属と日本人女性との間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている」という記述が削除されていた。
・代わりに「第2次大戦後に埋葬された嬰児(えいじ)(幼児)など、埋葬者名が不明なものも多い」という記述になっている。
・市の担当課の説明は「外国軍人軍属と日本人女性との間に生まれた子どもたちが埋葬されたとの記録はない」、「案内板の当初の記述では、ここに埋められた子どもがすべてハーフの非嫡出子だとの印象を与えかねないという判断もあり得る」などといったもの。


冒頭で引用させていただいたツイートでは「歴史修正主義のお手本」とされていますが、各地での朝鮮人強制連行に関する追悼碑等への圧力などと考えあわせると、行政の歴史修正主義への屈服の見本、と言うこともできるのではないでしょうか。
そのポイントはまず公文書至上主義です。記事中で紹介されている証言にあるように「許可なく埋めた」ケースは役所に「記録」がなくて当然です。そのようなケースの存在が推定される場合に記録の不存在を盾にとり、それ以上の調査をネグることは、歴史修正主義に好意的な結論につながります。第二に、「第2次大戦後に外国軍人軍属と日本人女性との間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている」について「ここに埋められた子どもがすべてハーフの非嫡出子だとの印象を与えかねないという判断もあり得る」などと、言いがかりとしか評しようのない“誤解”を忖度している点。「数多くの……」を「すべて……」と思い込んだクレームがあれば「いや、“すべて”なんて書いてないでしょ?」とはねつければ済むことですが、横浜市はそんな非実在クレームを先取りして書き換えてしまったわけです。実際に「……が多数あった」を勝手に「すべてが……だった」と読み替えて「ほら! ……じゃないケースがあるぞ!」と言い出すのは、歴史修正主義者が日本軍「慰安婦」問題で使う手口ではありますが、このようなミエミエの詭弁にすら行政は容易に屈してしまうことが明らかになったわけです。

「異例」なのは公になることじゃなくマスメディアが報じること、でしょ

 蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。
(後略)

天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例」って書いてますけど、近現代史研究ではすでに色々指摘されてるでしょ。戦後の言動に関するものに限定しても、当ブログで2回ほど紹介してます。マスメディアがろくすっぽとりあげないから「二度のご聖断神話」がいつまでたっても廃れないんですよ。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080831/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100404/p1

巨大シュレッダー付き公文書館?

(……)首相は過去に米公文書館を訪れたことに触れ、「どういう歴史をたどってきたか、誰でも身近に感じることができる。わが方は歴史への力の入れ方が小さい」と述べ、新館建設に当たっては米国を参考に「建国の精神を主張する」展示を充実させたいとの考えを示した。
(……)

「わが方は歴史への力の入れ方が小さい」などというならまずは保有している公文書を洗いざらい公開したらいいと思うんですけどね。安倍内閣なら新公文書館に焼却炉かシュレッダーの予算をつけかねない、と真面目に思います。

本来ポジティヴなはずの単語に泥を塗る人々

「未来志向」とか「流れを全体的に捉える」というのは素晴らしいことですよね。でも、こういう人々の口から出てくるととたんに色褪せてしまいます。

(……)
 ただ、こうした声は首相にとってはあくまで「外野」。首相が信頼を置く自民党谷垣禎一幹事長は記者団に「戦前のことばかり言うのは間違いではないか」と、未来志向に重きを置くことに理解を示した。有識者会議の座長代理に就いた北岡伸一国際大学長も会合後、記者団から「植民地支配と侵略」などの文言を継承するか問われ、「世界と日本、歴史の流れを全体的に捉えるべきだ」と否定的な見解をにじませた。

ここでは「未来志向」とか「流れを全体的に捉える」は単に過去を軽視する口実でしかないわけです。

ロクでもない談話にしかなりようがないメンバー

この夏に予定されている「戦後70年談話」を検討する諮問機関の“有識者”メンバーが公表されたわけですが、中日新聞はその顔ぶれについて「首相に考えが近いメンバーも多い」とする一方、毎日新聞は「首相ブレーン以外も起用してバランスを取った形」としています。ところがリストを見るとちゃっかり山田孝男毎日新聞特別編集員が入ってるんですね。どちらの評が的確か、まあ言うまでもないでしょう。
座長代理として事実上懇談会を仕切ると思われる北岡伸一氏については、昨年末の朝日新聞三者委員会報告書における個別意見の酷さが(私の周囲では)話題になりました。

吉田証言が怪しいということは、よく読めば分かることである。従軍慰安婦と挺身隊との混同も、両者が概念として違うことは千田氏の著書においてすら明らかだし、 支度金等の額も全然違うから、ありえない間違いである。こうした初歩的な誤りを犯し、しかもそれを長く訂正しなかった責任は大きい。
類似したケースはいわゆる「百人切り」問題である。戦争中の兵士が、勝手に行動できるのか、「審判」のいないゲームが可能なのか、少し考えれば疑わしい話なのに、そのまま報道され、相当広く信じられてしまった。

そもそも「百人斬り」報道が「相当広く信じされてしまった」のかどうかも実証的な検証が必要なことだと思いますが、当事者は「兵士」ではなく将校ですし、「審判」については当時取材にあたった記者が戦後にこう証言しています。

あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、"あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。−−それなら話はわかる、ということになったのですよ。

週刊新潮』の1972年7月29日号に掲載された記事ですが、「百人斬り」裁判の判決でも引用されています。北岡氏が抱いた程度の疑問は当然取材者も思いついていて、ちゃんと疑問を解決してから記事にしているわけです。これは「百人斬り」競争に関心を持った人間にはよく知られていることですが、それを知らずにこのようなかたちで引き合いに出すのも「初歩的な誤り」と言うべきではないのでしょうか?