山本七平のアウシュヴィッツ論
(…)口蹄疫という病気がある。これがひとたび侵入すると家畜は全滅するから、この病気にかかった家畜はすぐ殺して焼き捨てねばならない。(…)とすれば、もしヒト家畜の中に、奇妙な「思想」というヴィールスをもった家畜がいると思われた(または誤認された)場合はどうなるか。その伝染を防ぐためヒト家畜を全部焼き捨てるのが当然の措置であろう。これから先は、ユダヤ人である私には、書くのが苦痛だが〔引用者注:嘘つけ!〕、アウシュヴィッツとはまさにそういうものであった。だから、このユダヤ人という、伝染病にかかった家畜は殺されて焼かれた。そして家畜だから、当然のことに、その骨は肥料にされ、その髪は何かの原料にされ、その他利用しうるものはすべて利用され、その上、遺族には屠殺料が請求された。これは、いわゆる「残虐行為」ではない。確かに戦争中に日本軍にも残虐行為があった。しかし日本人が殺した相手はあくまでも「敵」であったし、少なくとも「敵」と誤認された「人間」であった。伝染病にかかった家畜のように、是非善悪でなくその存在自体がよろしくない、というのではなかった。たとえ日本刀で捕虜の首を切ることはあっても、高能率の屠殺機械を作り、屍体を何かの原料にするなどとは、日本人には到底考えも及ばないことであった。
(イザヤ・ベンダサン(笑)、『ユダヤ人と日本人』、角川文庫、42-43頁。)
どこかでみたことのあるはなしだと思いませんか? そう、これです。
で、鳥インフルエンザもそうだけど、あれって、一羽でもウイルスっていうか黴菌っていうかに感染したら同じ施設のを全部殺してしまうのですよ。そうしないと、さらにひどくなるからここの施設の同類は全部殺せ、というわけです。汚染の概念に近いかもしれない。
で、これって、家畜とか放牧する民族にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵なんです。
で、これが人間に適用されるのがgenocide。というか、genocideの原型。現代の国際法上のgenocideの基礎ということではないので誤解無きよう。
ほいで、この原型的なgenocideだけど、思想とか血とかが、ウイルス・黴菌のようにみなされ、それに同舎というか同類は全部殺せというわけです。
ある意味憎悪とかじゃないんですよ。そんな情緒的なもんではない。ポイントとしては計画性。この点については現代定義のgenociedeも引き継いでいる。
で、この原型的なgenenocideだが、家畜とかあまりしない農耕民族にはなじまない発想ですね。ただ、農耕には家畜がつきものなのですっぱりは切れないでしょうけど。(ちなみに、遊牧民にとって富が増えるというのは家畜が殖えるということで、家畜が殖えるっていうことは、せっせとおせっくすということで、そのあたりは情緒というものがない。で、彼ら自身も部族はおせっくすで増えている。血統は問われる。これに対して、農耕民は作物が増えるように、植物がその気になるようにそそらせるてことでおっせっくす見せたりとかその手の神事とかする。やってることは、薄目で見ているとけっこう同じだけど、農耕民は作物収穫が基盤になって人が増える。)
(http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060319/1142735496)
ちなみに浅見定雄は、山本七平のアウシュヴィッツ論について、ユダヤ系アメリカ人でMTI国際研究センター教授(当時)のハロルド・R・アイザクスが「ナチのユダヤ人虐殺に関する言及は、奇妙にも動物および動物の屠殺に関する章の中で行なわれており、しかもユダヤ人が書いたとは想像もしがたい不快な文章の中でなされている」と評していることを紹介している(浅見定雄、『にせユダヤ人と日本人』、朝日文庫、144頁〜)。
さて、欧米(なぜかユダヤ人もここに分類される)=牧畜/日本=農耕、というありがちな図式を前提としたアウシュヴィッツ論の問題点の一つは、欧米社会だって長い間農耕を基盤としてきたという事実が無視されている、ということである。たしかに家畜に対する依存度では近代以前の日本より近代以前のヨーロッパの方が高かっただろう。しかしそれは日本に家畜がいなかったことを意味しないし、近代以前の日本人が伝染病に関する知識を持っていなかったことをも意味しない。
第二に、アウシュヴィッツは近代的な合理性の帰結である、というのがアドルノ・ホルクハイマー以降のホロコースト研究の常識であるわけだが、20世紀前半に起こった出来事の説明としてどちらが妥当か、という問題がある。
第三に、これら二つの点を考えるまでもなく、実は山本七平の議論は内的に破綻しているのである。ホロコーストが「牧畜」民のメンタリティによって起こされたとするなら、牧畜民は人間と家畜の区別もつかない阿呆か? というのはおくとして、じゃあ“ユダヤ人という家畜”はなにから“隔離”されたのかを考えてみるとよい。口蹄疫(鳥インフルエンザでもよい)に感染した家畜が一頭(一羽)現われたからといって、自分がもつ全ての家畜を直ちに焼き殺すようなアホな牧畜民はいない(そんなことをするなら、放っておいても同じことである)。現代社会なら一つの養鶏場のニワトリを全て焼却するといったこともするわけだが、それは法律、保険などといった制度が整っていればこそであるし、また国中のニワトリを焼き払うわけではない。要するに、伝染病に感染した(ないし感染した恐れがある)家畜とそうでない家畜をまず区別し、しかる後に前者を焼き殺すわけである。しかしながら、後者もまた家畜であることには変わりがない。もし「病気にかかった家畜を処分する」という発想でもってアウシュヴィッツが引き起こされたのだとすると、ドイツ人は“ゲルマン民族もユダヤ人も同じ家畜であり、ただユダヤ人は病気に感染している”と考えていたということになってしまうのである! じゃあ飼い主は誰?
(初出はこちら)