戦争体験の多様性

(実際にアップロードしたのは8月31日です)


産經新聞の報道により一部で盛り上がりを見せているのが、沖縄戦の際の渡嘉敷村での民間人集団自決が「軍の命令によるものではなかった」とする新証言、というトピックである。この件に限らず沖縄戦全般について私は不勉強なので現時点での判断は控えるが、産經新聞の報道が事実通りなら元大尉の名誉回復のため、この事件について発言してきた各論者の誠実な対応が求められるところであろう。
他方で、「軍の命令」がなかったとしても、沖縄で(あるいはサイパンで)強いられた集団自決があったことまでが相対化されるようなことがあってはならない、とも思う。というのも、アジア太平洋戦争における日本人民間人の犠牲者は(史料によって相違があるが)約80万人とされるのに対して、沖縄だけで9万人とも言われる民間人の犠牲が出ているからだ。80万のうち「外地」での犠牲者が30万、「内地」での犠牲者が50万とされているので、現在の日本の領土の範囲での犠牲者で計算すると実に5分の1近くが沖縄での犠牲である。外地での30万にせよ沖縄での9万にせよ、人口比で考えれば他地域とはくらべものにならないほどの犠牲者が出ていることがわかる。
このような格差が生じた理由は、北海道・本州・四国・九州では地上戦が行なわれていないから、ということに尽きる。沖縄を除く内地での犠牲者約40万が本土空襲による犠牲者にだいたい相当するわけであるが、不謹慎に聞こえるかもしれないことを承知で敢えて言うなら、空襲だけでは実は人間はそれほど死なない、ということでもある(北爆がヴェトコン・ヴェトミンを屈服させることができなかったのもそのため)。もちろん、都市への空爆は生活インフラを破壊し二次的な被害をもたらすので、単純に直接の死傷者だけで空爆の被害を測ることはできない。しかし大型爆弾の破壊力や編隊を組むB29のイメージに象徴される「物量」ほどには実は死傷者は多くない、とも言えるのである。カラシニコフこそがナンバーワンの大量破壊兵器だ、と言われたりするのもそのためで、歩兵によるしらみつぶしの掃討作戦の方が犠牲者は増える。硫黄島でも沖縄でも、あるいは南京でも同じことである。しかも、歩兵による戦闘と空爆とでは殺す側にとっても「距離」がはなはだしく異なるのと同じく、殺されそうになった側・同胞が殺されるのを目撃した側にとっても「距離」の違いは大きいのではないか*1。このようなことを書くと、空襲体験者の犠牲を軽視するように思われるかもしれないが、それは本意ではない。しかしそれでも、固有の領土の大部分が地上戦の戦場とはならなかった、という事実が「敗戦国・日本」の戦争の記憶にある種の歪みをもたらしている、ということはないだろうか。
例えば、「学徒動員」という言葉は当時の青年が根こそぎ徴兵されたかのようなイメージを喚起する。しかしながら、1944年10月の時点で、日本軍の総兵力は人口の6.3%に過ぎなかった。ドイツ、イギリス、ソ連では同時期に総兵力が人口の20%前後であり、(もっとも余裕のある参戦国であった)アメリカですら8%に達していたのに、である。これは、かけ声とは裏腹に日本には「総力戦」を戦う体制が整っていなかったことを示している。別の言い方をすれば、「総動員」を行なうだけの工業力の裏づけがなかった、ということだ(熟練工に依存する製造業の実態では労働者を徴兵できず、徴兵しても与える武器を生産できなかった)。空襲は都市に集中していたが、当時は現在ほど都市への人口集中が進んでいなかったから、空襲未体験者も数多くいたわけである。例えば九州の田舎生まれの私の母などは一度も空襲を経験せず*2朝鮮半島からの引き上げ組である父親も空襲を体験していない。
このように、日本においては戦争体験の世代間での断絶のみならず、世代内での断絶も無視できないほどにあるのではないだろうか。

*1:顔の見えない敵が空から落とす爆弾で周囲の人々が死んでいくという空襲体験がもつであろう不条理性のような感覚を軽視することは勿論できないが、顔の見える敵によって目の前で隣人が殺される、地上戦特有の経験とは質が違うということも否定できないんじゃないか、と。

*2:さらに言えば、漁村だったので米こそ不足していたものの飢餓の心配はまったくなかったという