「国の歴史観」ってなによそれ?
日本は判決(刑の執行)を受諾しただけで裁判そのものを受諾したわけじゃない…という愚論が後を絶たない理由は、「東京裁判を受諾したのだとすると東京裁判史観を受けいれたことになってしまう」という思い込みにあるらしい。しかし、この思い込みが「日本国の歴史観」なんてものを前提にしているのがすごく気持ち悪いわけですよ。もう少し分析すると
- そもそも国家とは「歴史観」を持つことのできるようなエージェントなのか? 「歴史観」とは国家によって所有されうるようなものなのか?
- 「十五年戦争は日本の侵略戦争だった」という主張の可否は、「歴史観」とは水準が異なる問題ではないのか?
- 「十五年戦争は日本の侵略戦争だった」という東京裁判の認定は、「歴史観」なのか? 裁判所は「歴史観」を説く権能を持つのか?
ということになります。そもそも日本(政府)が特定の「歴史感」を持つ、という発想が不思議でならない。というか、国定の歴史観なんてまっぴらですよ。連合国の「歴史観」に縛られるのがいやなくせに日本政府の歴史観に縛られるのはオッケーですか? 私はどっちもいやですよ。そもそも「連合国」とか「日本政府」に歴史観なんて必要ないし、国家が歴史観なんて持てるの? 次期首相候補最右翼の安倍晋三だって「戦争の歴史的な評価は歴史家に任せるべき」って言ってますけど? 過去に同じようなこと言った首相もいましたよね。
まあ「歴史観」ってなに? という定義の食い違いも背景にあるんだろうけど、例えば広辞苑では「歴史観」は「歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方。観念論的な見方のものと唯物論的な見方のものとに大別することができる。史観。」となってる。最後の「観念論的な見方のものと唯物論的な見方のものとに大別することができる」ってあたりがちと古くさくて微苦笑を誘うけど、たしかに「○○史観」と言えばまず「唯物史観」ってことばを思い出すひとも少なくないでしょう。その他、よく使われるフレーズとしては「英雄史観」「網野*1史観」とか、あと「陰謀史観」なんてのもありますね(笑) これらはいずれも「歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方」であるわけですよ。ある歴史的出来事を理解しようとする場合に、経済的なファクターを重視するのか、政治的なファクターを重視しようとするのか、社会的なファクターを重視するのか、などの違いですね。あるいは「アナール派の歴史観」とか「世界システム論の歴史観」とか、ね。あるいはまた歴史を「国民の歴史」として描こうとするのか、日本海(例えば、ね)を中心とした交流の歴史として描こうとするのか、王様や政治家に注目するのかそれとも民衆史に焦点を当てるのか…といったアプローチの違いも歴史観の違い、と言えるでしょう。
これに対して「十五年戦争は日本の侵略戦争だった」かどうか、というのは「歴史観」の問題じゃないでしょう。「歴史観」の違いによって十五年戦争の評価が変わる…というのはちょっと考えにくいですね、私には。だって、いかなる歴史観の下でも変わらない事実(例えば、日本がごく一部の例外を除き自国の領土外で戦っていたこと、とかね)はあるんだから。一般的にはその可能性がないとは言いませんがね。逆に、(ほぼ)同じ歴史観の下でもある出来事についての評価が分かれる、ってこともあるわけです。例えば同じ陰謀史観をとったとしても、日本は「ユダヤ資本の陰謀」で戦争に巻き込まれた、とか「コミンテルンの陰謀」で戦争に巻き込まれたとか、見解が分かれるわけですよ。「十五年戦争は日本の侵略戦争だった」かどうか、は「歴史観」というスケールの問題じゃなく、特定の歴史観の下で評価の対象となる個別的なトピックだ、と思いますね。
つまり、そもそも「東京裁判史観」って言葉遣いに無理があるんだと思いますね。だいたい、裁判というのは「歴史観」に関して評価を下す機関じゃないでしょ。東京裁判で下されたのは、日本の行動(及び、各被告のその行動への関与)についての法的評価ですよ。「侵略戦争かどうか」ということについていえば、パリ不戦条約や九カ国条約に照らしてどうだったか? ってことで。それを勝手に「歴史観」に祭り上げて「そんなもの受け入れられん」と喚くのは滑稽じゃないか、と。講和条約11条が拘束しているのは日本政府の法的なふるまいに過ぎません。そこのところを日本政府がどう認識しているか、というのが例えばこれであるわけです。
○政府参考人(林景一君)(前略)
したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。
(平成17年06月02日 参院 外交防衛委員会)
要するに国としてはなにも言わないってことですな。じゃあ例えば日米外交において、あるいは日中外交において日本政府が「あの不幸な一時期」についてどのような認識を示すか…というのはそれこそ外交上の問題です。「歴史観」の問題じゃありません。別に相手の言い分を100%呑む必要はないけど、同じように自分の言い分を100%呑んでもらわなきゃやだっ、ってダダこねてもしかたないわけで。仮に、旧連合国諸国に対して日本がとてつもなく強力な外交カードを手にしたとすれば、外交交渉により「あれは日本の侵略戦争ではなかった」って言わせることは可能だと思いますよ(そんなに強力なカードを手に入れる手腕があるかどうかが問題ですが)。しかし、それによってわれわれ一人一人の「歴史観」が縛られたりはしません。
要するに「東京裁判を受け入れると東京裁判史観を受け入れたことになる」って言ってるひとは、「国家が歴史観を持つ」という不可思議な事態に疑問を持たず、「国家が国民の歴史観を拘束する」という不当な事態になんの疑問も持たないひとなんでしょう。その非常に権威主義的な「歴史観」観を勝手に投影して騒いでいるだけ、じゃないんですかね。
*1:ないし他の高名な歴史家の名前