その対立は本物か?

朝日新聞12月23日 「東京裁判判決から60年 冷静な史料研究続々

 これまで、裁判を肯定する「文明の裁き」論と、否定する「勝者の裁き」論が対立してきた。日本の植民地支配や侵略行為を正当化し、「東京裁判はあの戦争の責任を全(すべ)て日本に押し付けようとした」と論文に書いた田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長(当時)が更迭されるなど、論争は今も続く。

東京裁判の枕詞のようになっているこの「対立」だが、まともな研究者で「文明の裁きか/勝者の裁きか」などといった単純きわまる図式を前提に議論している人間なんているんだろうか? 管見するかぎりではそんなひといないんだけど。文明史的な意義を認めながら「勝者の裁き」ゆえの限界が多々あったことを指摘するとか、「勝者の裁き」という側面を指摘しながら戦後処理の方法として妥当性があったことを認める議論って、いくらでも見かけるんですけど。あっ、もちろんまともな研究者の間では、ということね。むしろマスメディアがこういう低次元な「対立」をクローズアップすることによって田母神元空幕長のようなコピペ史観の持ち主を延命させているのではないのか?

 例えば、日暮吉延(ひぐらし・よしのぶ)・鹿児島大教授の『東京裁判』(講談社現代新書サントリー学芸賞)。日暮氏は「東京裁判は何よりも『国際政治の場』だった。連合国は裁判で日本を無害化しようとし、日本政府も裁判の受容に利益を見た」というが、「この解釈が主流になることはないでしょう。それでも、史料に基づいた分析は必要です」とも話す。

東京裁判は何よりも『国際政治の場』だった」とか「日本政府も裁判の受容に利益を見た」って、そんなに特殊な見方ですかね? もちろんまともな研究者の間では、のはなしですが。『WiLL』なんかだと異端視されるのかもしれませんがw