「先の大戦」は「勝者の側から」のみ語られてきたか?
MSN産経ニュース 2009.3.9 「【主張】東京大空襲 「勝者の罪」も検証しよう」(魚拓)
(前略)
戦争はいつの時代も、勝者の側から見た歴史だけが語られがちである。だが、敗者の側から“勝者の戦争犯罪”を検証することも大切である。
そうだろうか? 戦勝国が敗戦国を軍事占領し続けたり自国の領土に編入する場合、あるいは内戦の場合なら「勝者の側」から見た歴史だけが(少なくとも表向きには)語られつづける、ということもあるだろう。だが、服部卓四郎らによる『大東亜戦争全史』の第1巻が出たのは早くも1953年のことだ*1。防衛庁の防衛研修所戦史室は全102巻にも及ぶ戦史叢書を刊行している。参戦将兵らによる回想記、従軍記も多数ある。教育現場や家庭での戦争体験の継承は時期や地域による相違、さらには個人差が大きいので一概には言いがたいが、少なくとも私自身について言えば大人から聞かされた「戦争」とはなによりも原爆を含む「空襲」の体験であったことは当ブログでも度々語ってきた。戦犯裁判についても、テレビドラマ『私は貝になりたい』が制作・放映されたのは58年のことだ。それ以降も(あるいはそれ以前から)、個別具体的な検証を経ぬままBC級戦犯裁判を不公正・一方的な裁判と断じる言説、東京裁判を「勝者の裁き」「事後法による裁き」で一蹴する言説にはこと欠かなかった。なにせ国会議員や大学教授がテレビやメジャーな月刊誌で南京事件否定論を開陳できる国なのである、日本は。私たちはむしろ、“戦勝国の視点から”あの戦争がどのようなものだったのかを私たちが真剣に考えてきたのか? ということをこそ問い直してみるべきなのではないのだろうか。特にアメリカ以外の戦勝国について。