「「田母神俊雄=真贋論争」を決着する」
秦郁彦・西尾幹二、「重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか 「田母神俊雄=真贋論争」を決着する」、『諸君!』、2009年4月号
まあもちろん「決着」などある意味ではすでについているし、別の意味ではこの対談でつくわけではないのですが。
発売されたばかりの雑誌なので、二人の対立がもっとも鮮明に現れていると思われる箇所(の一つ)だけを引用しておく。
秦 私は東京裁判というのは、ほどほどのところに落ち着いた、比較的、寛大な裁判だったという感想を持っています。一方、戦時下の日本は、敵に対して裁判らしい裁判をやっていません。これは非常に悔やまれることですね。
西尾 「ほどほど」とおっしゃるのは量的にみているからで、裁判の質が問題なのです。勝者が敗者を犯罪人扱いする資格はないはずです。日本にナチスはなかった。だから日本人に対する裁判なんかする必要はない! 日本の戦争は正しい戦争だったんだから。
秦 正しい戦争なら裁判はいらないということですか。
西尾 もちろん、いらない。日本の場合は単に力尽きて敗れただけですし、正義の旗を勝者に奪われたのですから、勝者はもう満足していたはずです。裁判などする必要はないじゃないですか。
いや〜「勝者はもう満足していたはずです」という決めつけはスゴいですな。一体何が根拠なんだか。現に裁判は行なわれたのだから、「勝者はまだ満足していなかったはず」と考えるのが素直だと思いますが。
秦氏はこの直後、「もし日本側、枢軸国が勝っていたら、東京裁判と似たような戦争裁判をやっていたでしょう。あるいは、日本人による恣意的な裁判、人民裁判に近いようなかたちになったかもしれない。」とも述べています。法学部出身ということも関係しているのかどうか知りませんが、当時の日本社会の法意識に対して厳しい見方をしている、という点が田母神支持者との決定的な違いなのかもしれません。