ちょっとした空想

ここでの私自身のコメント(引用にあたって誤字を訂正)。

swan_slabさんの


>彼は、同集会が公正であるべき法手続きの粗悪な模倣であり、こうした市民の振る舞いに相当いらだっていたらしく


という動機分析が正しければ…のはなしですが、歴史学者にも歴史学の「学究」として「歴史学の粗悪な模倣」たる歴史修正主義へのいらだちがあるだろう…ということは同じ「学究」として想像可能ではないのだろうか、というところが気になりますね。実は
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000150.html
というエントリは


>流れ速いなあ。仕事したいんだが……というのがまあ、こういう問題を「まともな法学者」が扱わない理由でしょう。手間がかかるわりに「業績」にはならない。その意味で、前エントリへのコメントで指摘された「エセ科学」問題と同様であるわけです。


という一文で始まるわけですが、これ、「法学者」を「歴史学者」に入れ替えれば歴史修正主義にまるまるあてはまることなんですよ。で、近現代史の、それも旧軍の戦争責任なんかに関わる領域を専門にしている専門家はそれこそ「面倒なことは避ける」か「仕事の時間を削って啓蒙する」かの選択を迫られてるわけです。それこそ「学究」としての最低限のシンパシーを現代史家に感じながらこの問題にとりくんでいれば、もうちょっと別の書き方になっておかしくないんですけどね。だって、「集団自決」の記述を削る根拠にされてるのが曾野綾子とかだったりするわけですよ。審議会に沖縄戦の専門家がいなかったこともすでに明らかになってるわけで。「学究」としてのシンパシーが法学の領域を超えては及ばないのだとすると、そりゃ確かに「かなり心が狭い」なぁ、と。

ツンデルがどうのとお気楽なことを書ける理由の一つは、教科書問題というのが法学の徒にとっては他人事だと思っているからではないか…と踏んでいるのだが、例えば田中眞紀子文科相になったとしよう(あながち蓋然性のないことではない)。で、父の「無念」を晴らすために、教科書調査官に渡部昇一センセイとか小室直樹センセイの息のかかった人物を送り込み、高校の「政治経済」の教科書に検定意見をつけさせたとしよう。嘱託尋問調書…ではなくて「被告人の権利」に関して、である。裁判所は場合によっては被告からの証人申請を却下できるかのような記述は「被告人の権利について誤解を招くおそれ」があるとかなんとか言って、被告側の証人申請を却下した刑事裁判は「暗黒裁判」である、といわんばかりの記述を教科書会社に強制するわけである*1。審議会には刑事訴訟法の専門家がいなかったために(笑)かような検定意見が通ってしまった、と。「かなり心の狭い学究」ならば、このような教科書検定に対してもひたすら、自分が(ないし自分が支持する政治家が)「間接的な影響力」を行使できるようになる機会を待ってじっと堪えるのだと思われる。間違っても朝日新聞の依頼に応じてコメントを発表したり、法学会で検定批判の声明を出したり、まして「11万人市民集会」に参加したりなんてことは絶対にないと信じよう。
さて、沖縄戦についての曾野綾子の「業績」が刑事裁判についての渡部昇一の「業績」並みだ、とは言わない。曾野綾子の仕事については十分に知らないから(渡部昇一の側についてはよく知っている)。しかしながら、英文学者や政治学者(法学博士だけど)の主張を根拠に法にまつわる教科書の記述をいじくり回されれば、「心の狭い学究」としてどのような気分がするだろうか…ということは想像してみてもらいたい。伊藤隆センセイも教科書審議官を育てる前に、まずはサヨクも一目置くような沖縄戦の専門家を育てるべきではなかったのか? なんせ渡部昇一小室直樹のトンデモ裁判論は、『WiLL』(当時はなかったけど)とか『ムー』ではなしに『文藝春秋』や『諸君!』に堂々と載り、国会議員が国会で同じような趣旨の質問をしたりした…というシロモノなのである。「南極の氷の下の穴の中にあるナチスの秘密基地から飛んできたUFOにアブダクトされました」などというヨタとは「教科書問題」になる蓋然性のケタがちがう(もちろん、20年前ならともかくいまならめちゃくちゃ低いことには変わりないのだが)。
ま、このツンデル云々で、この大屋雄裕なる研究者が自分の専門以外の研究分野に対して敬意を抱いていないことがよ〜く分かった。

*1:事情がよく分からんという方は、とりあえずこことかここなんかをごらん下さい。「被告人の人権」になんてまるで関心がなさそうな右派論壇の面々が、闇将軍田中角栄は被告人としての人権を侵害されている大変だ〜と騒いだことがあったのです。