続・教科書調査官の証言

同書より、1983年の検定で対象となった沖縄戦の記述をめぐるやりとりについて。
なお、この本は表題が示す通り、裁判(第3次訴訟)での双方の主張についても旧文部省の視点から紹介しているのであるが、ここではとりあえず検定当時のやりとりを中心に。
まず問題にされたのは本文ではなく、脚注である。「銃後の国民の死者は、空襲によるもの、沖縄・大陸での死亡者をふくめ、約65万人にのぼった」という箇所への脚注を、次のように改訂するという申請に対する検定であった。

(改訂前)
沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火の中で非業の死に追いやられた。

          ↓

(改訂原稿)
沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火の中で非業の死をとげたが、そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった。

          ↓

(検定後)
沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が、砲爆撃にたおれたり、集団自決に追いやられたりするなど、非業の死をとげたが、なかには日本軍のために殺された人も少なくなかった。


さて、現在の文脈だけを念頭において以上を読むと、この検定のどこに問題があるのかさっぱりわからないかもしれない。「なかには日本軍のために殺された人も少なくなかった」という記述は消されていないし、それに加えて「集団自決に追いやられたり」という記述を加えているからだ。なお、ここで「追いやられたり」という表現について教科書調査官がどのような認識を持っていたかについて。著者は検定が「追いやられたり」という表現を許容したことをもって原告(家永)側の主張を容れたものだと主張しているのだが、もちろん問題になるのは「なにが・誰が追いやったか」である。この裁判で証人として出廷した曾野綾子は「追い詰められる」という状況があったことは認めつつ、自決そのものは「自らの選択によってそれをなさったと思う」と証言している。軍命令で死んだというのは「大変に失礼」である、と。これ、青狐さんが靖国について言った「褒めてごまかすメソッド」そのものですな。著者は(当然ながら)この曾野証言を肯定的に評価しているけれども、「集団自決というものを崇高な犠牲的精神の発露だという見方があるようなんですが」という法廷での質問に対し、「そういう場合もあったろう」と、「そうでない場合もあった、ということか」という質問に対しては「そうです」と答え、軍命、誘導、その他の強制によるケースについても含みを残した証言をしている。


はなしをもとに戻すと、1983年の段階では文部省側が「集団自決について書け」と要求した理由は、表向きこのようなものであった(先日すでに引用した部分)。

(調査官)沖縄の県民の犠牲の問題なんですが、これも昨年末、いろいろ審議会でも論議されたところでございまして、すでに新聞などにも発表しておりますように、沖縄戦の全貌がわかるような書き方をしていただきたいということでございます。「そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった」と。これはおっしゃるとおり、事実ですね。しかし、その損害の中の一番人数的に多いという、犠牲者が一番人数的に多い一般市民の場合は、やはり集団自殺*1というのが一番多いので、それをまず第一にあげていただきたいと。
(203ページ)

これに対して、執筆者(家永)からの反論があった(家永側で録音し、文字に起こし、地裁に提出したものを著者が引用しているわけなので、内容については両者の間に争いがないと見てよい)。強調は引用者によるもの。

(家永氏)もっとも、それ〔集団自決〕は「非業の死」の中に含めてあるんですがね。
(調査官)はあ、はあ、はあ、えーと、「多数の」ね、「一六万もの」……。
(家永氏)で、「そのなかには」ということでこれはきわめて日本軍としてあるまじきことをしたゆえに、特別に書いたので、集団自決のほうは、これは必ずしも沖縄だけじゃないわけですね。サイパンにもありますし。
(調査官)そうですね。ええ。
(家永氏)ですから、それをまたいちいち書かなきゃならないということにもなりかねませんので。
(調査官)ただ、こちらの場合、一番数が多いということなので、それを書いていただかないと全貌がつかめないであろうと、それで「集団自決など」……。
(○○)(執筆協力者?−−時野谷注)「非業の死をとげたが」に含まれているわけだから(と独り言)。
(調査官)「−−−−などで、一六万もの多数の県民」と、そういう修正意見でございます。
(205ページ)

1987年に著者が地裁で証言した、修正意見の「趣旨」は次の通り。

直接米軍による被害でないとすれば、「日本軍のために殺された人」と、それもあることは事実ですけれども、まず数の点では集団自決のほうが遥かに多い、と。従って、非常に多いものを揚げないで、その次のものを書くというのは、やはり沖縄戦の全ぼうを理解する上で妨げになる、と。それは誤解する虞れがある。これは、特定の事項を特別に強調しないこと、全体の調和がとれていること、という検定意見(検定基準の誤り−−代理人注)の選択と扱いに該当するので、これは集団自決のことも入れていただきたい、という意見であります。
(206ページ)

なお家永側、時野谷ともに、当時の認識をもとにした主張であることに留意する必要がある。
さて、このように両者の主張を並べてみると、「これはきわめて日本軍としてあるまじきことをしたゆえに、特別に書いた」という論理と「一番数が多い」という論理との衝突であるようにみえる。実のところ「一番数が多い」というのも、「直接米軍による被害でない」ものの中で…ということであるから、実にちまちました細かなやりとりのようにみえて、「責任の形而上学」にまつわる争いが背景にあるわけである。文部省側は「特定の事項を特別に強調しないこと」という基準をもって家永側に反論しているわけだが、しかし「一番数が多い」という理由があればそれを特に書くことは妥当だと考えているわけである。とすると、「これはきわめて日本軍としてあるまじきことをしたゆえに」が「一番数が多い」と比べて特定の事項を強調する理由として劣るところがあるか? という問題ということになる。あることがらをもっともよく代表するのは「多数事例」なのか「(他のことがらと比べて)ユニークな事例」なのか。
はなしを複雑にしているのは、文部省側にも「なかには日本軍のために殺された人も少なくなかった」という記述を削らせるわけにはいかないという事情があって、「どちらを書くか?」という対立ではなく「集団自決も書くかどうか」という対立になっている、ということである。単純に「より多くの情報を書いているほうがより詳しいのだからベター」という論理がまずいのは、もともと無茶苦茶に簡潔な記述を求められているがゆえに、ある事項を書き加えることで別の事項のプレゼンスがグッと落ちる、ということがやはり現実にあるからである(もちろん、そういう効果を狙った、などと教科書調査官が語ったりはしないが)。


とりあえず今日はここまで、ということで。あと、どうでもいいけどまちむら氏はなしのつぶてですな。言いたいことだけ書いて、無責任な人だなぁ…。

*1:原文は「自殺」にルビで「(ママ)」。