「鉄血勤皇隊」などの資格について(追記あり)

こちらのエントリのコメント欄でのご質問&情報提供を受けて。『沖縄一中 鉄血勤皇隊の記録―証言・沖縄戦』(兼城一、高文研)には鉄血勤皇隊の隊員が「軍人か、軍属か」ということにつき国会でも議論になった、とあったので議事録を調べてみました。


昭和30年06月17日、衆議院「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」において金城参考人が次のように語っています。

(…)
 勤皇鉄血隊、通信隊戦傷病者は、事実に基きすべて軍人として取り扱っていただきたい。日本政府が沖縄の戦没者に対し深い同情を寄せられ、行政が分離されているにもかかわらず他府県と同様に援護法を適用せられることは、まことに感謝にたえません。沖縄戦は人類史上かつて類例のない激戦であり、三十五万の住民中から十五万の犠牲者を出し、血の島として世界に知られ、その惨状は言語に絶しました。それがまた前例のない国内戦であったため、予想もされなかった事態が生じました。十五、六才のうら若い女学生が看護婦として従軍、十五、六才の中学生が通信隊となり、女子青年が急造爆雷を背負って敵戦車に体当りし、国民学校児童が手りゅう弾を握って敵陣に突入する等、現実にあったとは考えられないほどの悲惨事が起ったのであります。それゆえ、援護法は、沖縄戦の実態を十分に調査し、その事実に基いて適用されるべきであります。沖縄男子中等学校四、五年生は鉄血勤皇隊に編成され、沖縄師範学校男子部、第一中学校、工業学校、商業学校、開南中学校は球部隊に所属し、中南部の戦争に参加しました。第二中学校、第三中学校、農林学校の一部は宇土部隊に所属し、水産学校、農林学校の一部は村上隊に所属し、北部に参戦しました。中学校二、三年生は通信兵として志願し、厳格な適性検査を受け、合格者は軍に入隊し、有線、無線、暗号、情報等の特殊教育を受け、最も重要にして危険な任務を負わされました。これら鉄血勤皇隊員、通信隊員は二等兵の階級章を与えられ、、兵器、装具、被服その他一切の給与も軍人としての処服を受けたのであります。いずれの隊も入隊式をおごそかに挙行し、上官より、皇軍の軍規を守り、軍人としての本分を守り、任務を遂行すべしとの訓示を受け、国難に殉じた暁は靖国神社に祭られるとの激励を受けたのであります。純情無垢な彼ら青少年学徒は、ひたすらに命のままに軍人として行動し、最後まで郷土防衛に奮戦しました。戦死した者は、第二中学校三年生通信隊員石川清松君等のごとく多く一等兵に昇進、あるいはまた師範学校男子部鉄血勤皇隊員久場良雄吾等のごとく一階級特進の恩典に浴した者もあります。なお、捕虜となった十七才以下の通信隊員が多く一般軍人とともにハワイの捕虜収容所に送られています。これらの学徒がすべて軍人であったことは、ごうも疑いをいれない厳然たる事実であります。
 このたび厚生省と南方連絡事務所と協議の結果、男子学徒は十七才以上は軍人として十七才未満は軍属とすることは、明らかに厳然たる事実を否定したものであり、まことに遺憾にたえません。鉄血勤皇隊員及び通信隊員中戦死した者は千百五十余名、そのうち七割以上が十七才に達しない少年であります。鉄血勤皇隊員がすべて軍人として同一の行動をとったことは申すまでもありません。通信隊員はほとんど全員十七才未満の少年であります。友軍の日の丸機一機も飛ばず、全く制空権を敵に握られ、陸海空相応しての敵の猛撃を浴びながら、十四、五才の少年通信隊員は、砲弾雨飛の中に身を挺し、だぶだぶの軍服をまとい、軍靴をはいて、切断された電線をつなぎ、あるいは伝令となり、危険な任務を負、うて濡躍しました。通信隊の任務がきわめて重要であり、その遂行には危険を伴い、しかも彼らが年少者であったため、その犠牲は特に多く、通信隊員はほとんど全滅しております。四月十六日、徳丸中尉の率いる第三中学校通信隊は本部半島において全滅し、六月二十三日、水産学校通信隊員は傷尻摩文仁において瀬底正賢君一人を残して全員壮烈な戦死を遂げ、第二中学校通信隊のごときは、わずかに数名を残して百五十名が全滅しております。通信隊は、鉄血勤皇隊とはいささか性格を異にし、一切学校職員の参加も許さず、連絡さえ拒絶し、秘密暗号等の特殊教育を施して、純然たる軍人として軍に編入されました。鉄血勤皇隊員が軍人として資格を持つ以上に、通信隊員ば軍人としての資格を具備し、軍人として行動しています。通信隊員が十七才に達しない理由をもってほとんど全員が軍人として取り扱われないことになれば、これは明かに事実にもとり、きわめて不合理であります。もし、十七才という年令を基準にして、十七才以上は軍人とし、十七才以下を軍属とするとき、同一学年で同一部隊に属し、同一行動をとり同一場所に戦死した者が、一人は軍人、一人は軍属として取り扱われるという不合理も生じます。かかる取り扱いは、現地軍の実施した事実を否定し、純真な青少年を欺くの結果となります。殉国の至情に燃えて散華したこれら青少年に対し、国家は当然事実に即する措置を講ずべきであると思います。

この後、委員の一人から「軍人でも軍属でも国家的施策としての扶助料というような問題においてはおそらく違いがないだろう」という発言があり、参考人の要望が「精神的の問題」であること、すなわち同じ委員によれば「結論は、軍人としての階級ということと、靖国神社に合祀する、その三点〔ママ〕でございますね」ということが確認されている。
上の金城参考人の発言中にある戦死後の特進については、同年07月04日の同委員会でも山下(春)委員から次のように言及されている。

(…)沖縄の鉄血勤皇隊あるいはその通信隊等の、沖縄の学徒を召集いたしまして軍隊に使いましたその多くの者が死没いたしております。そこで、援護局といたしましては、これの援護の手は差し伸べておられることは了承しておるのでありますが、考えてみますると、この人たちは、兵隊であったという――私非常にまだたくさん持っておりますが、兵隊であったという実績がたくさん残っておるのであります。これがなぜ恩給法に行かなかったかというと、十七才未満であるからでありますが、その十七才未満でも、これはりっぱに軍服を着せまして、特にその当時の記事を見ますると、知念弘という人はこれは十五才であります。十六才はここに六、七名書いてありますが、死没後二階級特進して上等兵に進級しておるのであります。そういう点から考えますと、これはどうしてもただ援護だけでこれを処理いたしますことはどうもむずかしいように考えられるのでありますが、今日終戦後これらの人々は靖国神社に祭られることもなく、あるいはまた沖縄は日本に帰属したいと島民全体がこいねがっておるにもかかわらず、このこともかなわないというような気の毒な状態にあります。これらの人々を特にできれば現在の恩給法の中に認めていただきたいのであります。これが恩給法に認められない理由は、今は死滅したものでありますが、兵役法の中に十七才以上となっておるからだそうであります。(…)

これに対する大臣の答弁には「十七才以上」という線引きの法的根拠についての回答はないのだが、「兵役法の中に十七才以上となっておるからだそう」というのは防衛招集の対象となる国民兵役のうち第二国民兵役(これに該当しなければ法的には招集されるはずがない、という兵役の最周縁)が17歳以上45歳までを対象としていること、を指していると思われる。『沖縄戦 国土が戦場になったとき』(藤原彰編著、青木書店)の65ページ(山田朗氏の担当部分)に「その際、各部隊は作業員や補充員ほしさに正規の手続きをとらない招集もおこない、一三歳や七五歳の防衛隊員も出現した」とあることと考えあわせると、沖縄戦では兵役法を無視した動員が事実上おこなわれ、動員された少年の一部は事実上二等兵として扱われた、ということのようである。(つづく)


追記:金城参考人の発言中、「球部隊」とあるのは独立混成第44旅団のこと、「宇土部隊」というのは独混44の第2歩兵隊(国頭支隊)の指揮官が宇土武彦大佐だったのでおそらくはこの部隊、「村上隊」というのは第一護郷隊のことではないかと思われる。