シーファー駐日米大使、原爆投下に言及
・・・上の話題と関連することとして。
2008/08/01 西日本新聞(夕刊)
高校生に「原爆正当」 シーファー駐日米大使「被害者最少限に」 福岡県宗像で講演
シーファー駐日米大使が1日、福岡県宗像市で開かれている高校生対象の「第5回日本の次世代リーダー養成塾」(塾長・御手洗冨士夫日本経団連会長)の特別講座に招かれ、「私が高校生だったころ」をテーマに講演した。質疑応答で、高校生から「原爆投下は必要なかったのでは」と問われた同大使は、「戦争被害者を最少限に抑えるためだった」などと答え、広島、長崎への原爆投下の正当性を主張した。
(中略)
質疑応答では、2人の高校生が「原爆投下は正しかったと思うか」「長崎の原爆投下は必要なかったのでは?」と質問。シーファー氏は「(原爆投下に)賛成しないまでも理解できる」と前置きした上で、「降伏しない日本に原爆を投下したのは、より多くの人命が失われないためだった」などと説明した。
「人命」の内訳にこの記事は(ないしシーファー大使の発言自体が)言及していないので断言はできないが、日本人向けの発言であることをふまえると米軍将兵だけでなく、日本人(軍人、非戦闘員あわせて)の人命も救った、という主張なのではないかと思われる。先日とりあげた『空の戦争史』について、私が言及しなかった論点をうちゃさんが紹介しておられる。
そして、無差別爆撃の方はこの精密爆撃というのが実は大して効果が上がらないことから、その言い訳として生まれたようなところがある。生産力ではなく、相手国民に恐怖を与えて、戦争遂行の意思を削ぐ、というわけだ。これが成功すれば、実際に戦闘を行って兵員達に膨大な被害を出すよりも結果的には少ない犠牲で戦争を終わらせることが出来る、というのが無差別爆撃を主張するものたちの言い訳なのだが……そんなわきゃ無いというのは実際に起きたことを見ればあきらかである。
「戦略爆撃の思想」の系譜を考える時に非常に興味深いのは、この「徹底した空爆こそ人道的」という倒錯的な主張が、飛行機の軍事利用がはじまった当初から主張されていた、という点。ドゥーエの爆撃思想について、同書は次のように記している。
したがって、空爆は、「攻撃された一部の国民に対する高度の暴力」によって「社会の完全破滅が不可避という恐怖心を生み」出すため、「残虐な特性にもかかわらず流血が少ないので、高い立場から見れば従来の戦闘よりも人道的である」と述べて、無差別爆撃を正当化したのである。
(57ページ)
「高い立場」のダブル・ミーニングは意図的なものかそうでないのか。他にも、1920年にイラクで空からの毒ガス攻撃を提案したチャーチルが、文明化の遅れたイラク人を救うための「科学的実験」であると主張した例などが紹介されている(78ページ)。
戦略爆撃が敵の戦意を破壊して戦争を早期終結に導く・・・という発想が戦争の実態と一致しないことは、新しいところではヴェトナム戦争を想起すれば直ちに納得のゆくところで、そうした観点から上記のような原爆正当化論を批判してゆくことも必要だが、今後も新しい軍事テクノロジーは「結果的により多くの人命を救う」というふれこみで登場するだろう。