「白燐弾」をめぐって問題にすべきことは何か

「どんな兵器で殺されようが殺されることに違いはない」といった主張は、たいていの場合シニシズムの発露でしかないとは思うが、たしかに一面の真理をついてはいる。人間というのはいかなる武器・兵器も用いることなくきわめて残虐なことを行いうる想像力(と想像力を遮断する能力)を持っているからだ。とはいえ、どのような兵器をどのように用いるかに軍事思想が現われるわけだから、やはりガザにおける白燐弾の使用を問うことに意味がないわけではない。


その前にちょっと遠回りして、白燐弾の使用それ自体ではなく白燐弾をめぐるネットでの議論について。mojimojiさんのところに書いたコメントに加筆しつつ。
特定通常兵器使用禁止制限条約の議定書IIIは、白燐弾を名指しで「違法」としたり「合法」としているわけではない。問題は「物に火炎を生じさせ又は人に火傷を負わせることを第一義的な目的として設計された武器又は弾薬類」「焼夷効果が付随的」といった条文の語句の解釈である。そして「第一義的な目的」とはどういうことか、というのは少なくとも議論の余地のあることである(日本の法律だと「主たる目的」という文言がいくつもの法律で用いられていて、判例を捜せばこの文言の解釈が争われた訴訟が絶対にあると思うのだが今回は調べるのをさぼることにする)。なにしろ、白燐に焼夷効果があることは昔から知られているわけだ。わざわざ焼夷効果を抑えるような設計がなされている*1場合であれば、「焼夷効果が付随的」であるという説明にも説得力はあるだろうが、設計者なり発注者なりが「いやこれは発煙弾です」と主張すれば焼夷兵器ではないことになる、なんてことになれば条文は骨抜きになってしまう。そもそも「○○は違法だ」「○○は合法だ」という主張が条文を見れば誰にでも分かる自明の事実をめぐって行なわれることはむしろまれではないだろうか。法が持たねばならない一般性と個々の事例が持つ個別性との間には緊張関係があって、パラダイム的なケースでは誰もが同じ判断を下すけれどもそこからの逸脱が大きくなるに連れて判断も分かれてゆく。したがって「○○は違法だ」「○○は合法だ」という主張は実際には「○○は違法である、と解釈すべきだ」「○○は合法である、と解釈すべきだ」ということを意味していることが多い。他人の財布を盗んだ人間が「いや、これが窃盗にあたるかどうかは議論に値する」などと主張しても誰もまじめにはとりあわないが、盗電が窃盗にあたるかどうかはかつて真剣に争われたことがあるのだ(1903年大審院判例)。先日とりあげた Times紙の報道が一例であるが、英語圏での議論を管見するかぎり白燐弾の使用の違法性は少なくとも争いの余地のある事柄として扱われている。これは要するに法(この場合は特定通常兵器使用禁止制限条約)を、その立法趣旨その他に照らしてどのように解釈し、運用すべきかについての立場表明の問題である。「白燐弾は非人道的だけど違法じゃない」と主張するひとは、なぜ「違法だ」という解釈をとろうとは思わないのか? 「白燐弾の使用は違法ではない」ことを自明のこととして主張したがる人々に欠けているのは、こうしたパースペクティクではないだろうか。
もちろん、一般論として条文の解釈を極力限定的にすることとある程度緩やかにすることとには、それぞれ一長一短がある。だから、場合によっては「むやみに拡張解釈することは危険」という主張はもちろん意味がある。しかし、この場合、特定通常兵器使用禁止制限条約の議定書IIIの条文を緩やかに解釈することが誰の利益を損ない誰の利益を守ることになるのか? 条文を厳格に解釈すればより多くの選択肢をもつ側が有利になる(条文に引っかからない選択肢を使用することができる)ことになるのは明白であって、要するに「第一義的な目的」を限定的に解釈すれば軍事的に優位な側がさらに有利になるわけである*2。結局のところ問題なのは、法解釈におけるフィロソフィーなのだ。


ここで議論を白燐弾の使用それ自体に戻そう。イスラエル軍が(あるいはイラクでの米軍が)非難されるリスクを冒して白燐弾を使用するのはなぜか? その答えは、報道されているキル・レシオが如実に物語っている。イスラエル軍が国際社会から批判される可能性を絶無にするためには、市街地に歩兵を送り出して“武器を持ち、かつ戦闘の意思を示した人間”だけを、付随的被害の発生する怖れのない武器で攻撃するよう命じるしかない。もちろん、そんなことをすればイスラエル側の犠牲は飛躍的に増えるだろう。そうした事態を許容できないからこそイスラエル軍は(あるいはイラクでの米軍は)グレーゾーンの=ともあれ言い抜けの余地はある兵器を使うわけだ。これは結局のところ、広島・長崎への原爆投下を正当化する(あるいは南京事件否定論者が軍律裁判抜きでの便衣兵容疑者殺害を正当化する)ロジックと同根である。一方での“人命尊重”が他方で多数の死者を生みだしているグロテスクさ。もちろん、紛争の両当事者が同じように大量の死者を出せば人道的というわけではないだけに、このグロテスクさをどう考えればよいのかは難しいのだが。

*1:白燐以外の材質を用いるという選択肢も含めて。

*2:もちろん、別の法律については、ゆるやかな解釈が軍事的に不利な側をより不利にしてしまうことはありうる。南京事件否定論とも関連する問題であるが。