道徳感情の複合性

  • とにかく殺すのは悪い
  • 先に殺した方が悪い
  • 殺すのをやめない方が悪い
  • たくさん殺した方が悪い
  • 正当な理由なく殺した方が悪い
  • 無抵抗な(ないし圧倒的に弱い)相手を殺すのは悪い
  • 違法な殺害は悪い
  • 残虐な、あるいは汚い手段で殺すのは悪い

……
このリストは暫定的なもので網羅的でもなければ分析しつくされたものでもないけれど、ともあれ「殺人」という現象を前にした時に私たちのうちに立ち上がる道徳感情は、こうした複数の原則が複雑に相互作用しあった結果だということはできるのではないか。意識的に特定の原則に全面的にコミットすることを選択した人(例えば絶対的非暴力主義者)以外は、上記の原則のいずれか一つだけにしたがってすべての「殺人」を評価することには困難を覚えるはずだ。例えば、「残虐な、あるいは汚い手段」での殺人であっても、殺される側が「先に殺した」「正当な理由なく殺した」という条件を満たしてしまっている場合−−典型的には「復讐」の場合、人々の共感を少なからず集めることがあるわけだ。
これらの諸原則を、それ自体として(つまり、具体的な場面では例外があるかもしれないけれど一般論としてどう思いますか? と聞かれて)不当であると答える人は殆どいないだろう。しかしこれらに異なる優先順位を与えるだけで、紛争・戦争の両当事者に対する評価が変わることがあり得る。プロパガンダはそれを利用して、特定の原則のみをひたすら強調することがある。日中戦争は「たくさん殺した」「正当な理由なく殺した」「無抵抗な相手を殺した」「違法に殺した」「残虐な手段で殺した」のいずれの点でも日本側を正当化する余地のない戦争だが、『WiLL』や『正論』文化人はひたすら“中国が先に手を出した”と言いうる事例を探し出し、これをテコに戦争全体の評価を逆転させようとしているわけである。
また戦争の評価ともなれば上記のような「殺人」に関する道徳感情それ自体が上位レベルの道徳判断の一要素になってしまうわけなので、「殺人」についての道徳感情にしたがう限りAが悪いとしか思えないのに、Bが悪いと言わざるを得なくなることもありうる。そうした時、抗議する自分の道徳感情をなだめすかすのにもこのプロパガンダの手法は利用可能なのだろう。