『シベリア出征日記』

N・Bさんからの情報提供により、先日古書店で入手した『シベリア出征日記』(風媒社*1)はなかなか資料価値がありそうなことがわかったので、ご紹介する。


『スラブ研究』誌に掲載されたシベリア出兵研究の論文を読むことができる。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/53/53contents.html


ちなみにシベリア抑留についての研究報告もあり。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/81/81-contents.html


日本学術振興会の資金による研究事業「ジェノサイド研究の展開 Comparative Genocide Studies(以下CGSと略記)」のサイト閲覧することのできる「シンポジウム」記録から、「関東大震災から81年−朝鮮人・中国人虐殺を再考する」の記録に進むと当サイトの閲覧者の方にはおなじみの笠原十九司氏による「東アジア近代史における虐殺の諸相」という報告を読むことができる(PDF形式)。シベリア出兵時の虐殺については4ページ以降。ここで上記『シベリア出征日記』、1919年2月13日の記述が援用されている。調べてみたところ収蔵している図書館もごく限られているようなので、同日分を全文引用する。強調は引用者によるもの。繰り返し記号による仮名の省略は上手く再現できないので仮名におこしてある。

二月十三日 午前三時、真夜中といふのにこのデシネフカを出発、インノケンヘと突進した。山を登り、森を通り、谷を降りまた登る。かうして五時頃林を抜けると、目の下は平野にして二千メートルと思しきところに村があり、中央には村を表徴する教会堂の丸い塔が高く聳えてゐる。これぞ目的のインノケンチェフカである。指揮官は林の中に砲兵陣地を敷き、歩兵は坂を降りて待機した。あれぞ敵の根拠かと思へば自づと身の緊張を覚ゆる。
 かくて静かな払暁を破って野砲の第一弾が放たれた。天地を震動させる轟音とともに弾丸は村の中央に落下、家は崩れて火を起し、黒煙は天に柱した。かうした探りの一弾に敵影は如何にと見てあれば、出るは出るは、村の四方にかけて橇に乗った敵か土民か夥しき者が蜘蛛の子を散らすやうに逃げて行く。敵はゐた、それ逃がすなと村の左右前後と見舞った砲弾で、村の彼方此方から火災が起る。敵は大砲を持たないらしく、一発の砲撃もして来ない。それ、敵を逃がすな、歩兵進めの号令一下、五中隊は村の右側を、八中隊は道を一直線に村の中央目がけて突進した。敵の橇には限りがあったらしく、もう橇も出て来ず騎馬も途絶えた。村からはしんがり役なのか、逃げ遅れた破れかぶれの抵抗か盛んに発砲して来るが、野っ原であるがために身を隠す所はない。右に左にバタリバタリと戦友が倒れる。戦死か負傷かそれを確める暇はない。もうかうなれば一挙に突撃だと着剣して、命令を待つまでもなくお互がウワーッと喊声を挙げ村へ突入した。
 村は砲弾で盛んに燃えてゐる。ああこの煙こそ、我戦死傷者の呪ひの炎であらう。その煙をかい潜って木下少尉、特務曹長曹長がお家伝来の宝刀白刃を飜して先頭に進む。兵は着剣をきらめかしてこれに続く。家の中より物陰より盛んに発砲して来るが、その時はもう身の危険等との考ヘは微塵も起らない。一昨日の恨み、戦死者の弔合戦だと身の疲労等とうに忘れてしまひ、脱兎の如くに攻入った。その勇敢さは、敵方より見た時は如何に恐しく見えたことであらう。硝子を打割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当り次第撃ち殺す、突殺すの阿修羅となった。前もって女子供、土民を害すなと注意されてはゐたものの、敵にして正規兵は極く少数、多くは土民に武器を持たしたもの、武器を捨てれば土民に早変りと言ふ有様にて、兵か土民かの見分けの付かうはずはない。片っ端から殺して行く。敵の兵力は一千と聞いた。逃げたとしてもまだ何処かに潜んでゐようと、一軒毎家探しをしたところ、作物を貯蔵してゐる地下室に兵か、土民か、折重なり息を殺して隠れてゐる。奥の方は暗くて何人ゐるかは判らない。一発ポーンと放っておいて、「イヂシュダー」(こっちへこい)と怒鳴ると、銃や剣は捨ててまづ両手を挙げて、次に手を合せ拝みながら上って来る奴を戸外に連れ出し、撃つ、突く等して死骸の山。かかる時、正規兵は歳々馬に乗って一番に逃げ、後は土民兵に抗戦させるのが習ひ。その正規兵が此処に数名ゐた。引っ捕へて本部に連行、敵情に就いて尋問した後は、憎さも憎い正規兵とて、腹を突く、胸を差し、首を落すと言ふ風に嬲り殺しをやった。もうこの時は人を殺すことを何とも思はない。大根か人参を切る位にしか思ってゐない。心は鬼ともなったであらう。一人でも多く敵を殺すことに優越感を持ってゐた。中に大兵肥満の奴がゐた。薬包帯を〆めていたので、「貴様、兵隊だな」と戸外に連れ出し大地に坐らせ、日頃習った銃剣術の手を現す
 さて次の家へと向ひつつほかの兵はどうしてゐるかと後を振り返って見ると、矢張り同様に暴れてゐる。硝子を打割る音ヂャリーンガラガラ、扉を破る音バリバリ、キアキア言ふ奴を突き殺す。殺された妻が泣き叫ぶ。拝む奴を突き倒して行く敵のゐた家には火をつける。豚の焼死ぬ声ギアギアギア、屋根の焼落る音ドターッ、焼ける風音ゴーゴー、もののはぜる音ポンポンパチパチ。馬が走る、女が髪を振り乱して逃げまどう様、悲惨な光景これ以上はあるまい。しかし恨みをのんで戦死傷した我将卒の仇に報ゆるにはこれが当然だと思った。
 俺はこの有様を見ながらも、嗚呼悲惨、これが戦場の習はしか、可哀相に等とは思はなかった。かうした惨状がかへって物面白く目に写り、その殺気は鬼か蛇か、人に劣らず一人でも多く殺してやれと次の家へと急いだ。初めは三、四人で敵の家に入ったものだが、もう一人で平気。大きな家へ率先突入して地下堂の蓋を開いた。此処にもごろごろ折重なって隠れてゐる。例の如くポンポーンとやると、敵は慌てて上に上り、土下座して拝む奴を戸外へ連れ出した。外には木下少尉や特務曹長等が血刀を提げて俺達の連れて来るのを待ってゐる。道に坐らせておいて一刀の下に首を斬り落す。流石に木下少尉は学校出だけあって腕は冴えてゐた。ただ一打で首がころりと落ち、首根よりは血汐が噴水のやうに飛去り出た。かうして村中の敵らしき者は打ち据へた。内数名を活かしておいて敵状に就いて取調べたところ、敵の主力は昨朝この先の村シュミロフカへと逃走した由。木下少尉は日清、日露の役と言ふが、こんな愉快な戦はなかったであらう、ああ面白かったと言ふ。これで六中隊や機関銃隊の仇をとった。友岡の霊もさぞがし満足してゐることであらう
 しかし時の過ぎるにつれてお互元の人間の心に返って行った。思へば惨いことをしたものだ。俺が手に掛けたもの幾人か。嗚呼、可哀相に。妻や子もゐよう、親兄弟もあるかも知れないと言ふ同情心の後には、したことに恐怖心が涌いて来る。これを敵方から見たらどうだったらう。焼ける家の黒煙、それを潜って怒涛の如く攻め入った日本軍、硝子を割り、扉を打破って乱入、手当り次第に殺傷して行くその兇相は、元寇の役に蒙古勢が壱岐対馬に上陸した様に匹敵か、赤穂浪土が吉良邸に打ち入りしたのもかくやとばかり物凄かったであらう。
 陣地を引揚げて来た野砲隊が到着して、白兵戦惨劇の跡に暫し目を見張ってゐた。時はまさに午後一時。一まづ休憩と言ふのでそれぞれ空家に入って飯を炊いた。そして、鶏、豚、卵、馬鈴薯等を徴発して来て存分に食ひ、鋭気を養った。其処へ末松大尉より達示が来た。本日は此処に宿営、明朝第二大隊長高橋少佐が騎兵二ケ中隊を率ひて此村に到着、高橋支隊と名付けて敵を追ふとのことであった。俺は木下少尉に付いて支隊長の休息舎にする家を物色に行き、美しく大きな家を見付けてそれに決めた。その家の中に珍しい和製の湯呑、靴、木筆等があったので、木下少尉の「ザビタヤに帰って使ふから持って行け」との命によりそれを持って帰った。兵隊同土でも珍しいロシア品、匙、ホーク、小刀、包丁、手鏡、刺繍マフラー等荷にならぬものを記念としてとってゐた
 五中隊の宿舎の地下室から、十一日敵に盗られた米、醤油等が出て来た。また或家からはその日に戦死した機関銃隊の山本源市が携行してゐた銃剣、剣差、水筒、雑嚢が出て来た。その遺留品を手にしながら、或下士が次のやうな物語をした。「俺と山本とは同村出身者にして、村にゐる頃より出征の今日まで無二の親友として交際して来た。我五中隊がザビタヤに着いた時、山本が戦死した由を聞いて驚いたが、よしきっと仇は取ってやるとやって来たのである。この家に泊り、山本の遺留品を親友の私が見付けたと言ふのは、何と言ふ因縁であらうか。私がこの家に泊り度いと思ったのは、山本が私を引き入れたのだと思ふ。死しても尚俺を慕ってくれるかと思ふと涙が出る。俺はこの遺留品を国に届ける責任がある」と言った。戦場に更けた一挿話である。
 修羅場であっただけに夜の静けさは一入である。歩哨から帰って来たK二等卒が、白雪の中黒く浮き出て見える敵の死体、あの中には自分が手がけた死体もあるのである。蘇って来るのでないかと気味が悪い、焼け残りの焔がめらめらと、それが怨霊の火のやうに見えてさなきだに寒い夜に一入の悪寒を感ずる、と語った。

敗残兵を捕虜とせず据えもの斬りとする場面は南京攻略戦においても繰り返された。地名さえ置き換えればそのまま南京の光景と言ってもヴェトナムの光景と言っても通用しそうである。1)戦闘員と非戦闘員の境目があいまいな戦争*2、そして2)戦友の仇をとるという動機が殺戮を正当化していること。3)殺害への抵抗感がなくなりむしろ楽しみさえすること*3。また4)掠奪が食糧のような必需品に限られず、記念品的なものにまで及んでいること。
「仇をとる」という動機は殺害を正当化したり免罪したり、そこまでいかなくても相対化する理由として持ち出されることが多いが、この日記の著者が直ちに気づいているように、「敵」もまた同じ動機で行動することをよしとするなら殺害の連鎖は断ち切られることがない。さらに、多くの兵士にとって殺人体験は(遅かれ早かれ)心の傷となってゆく。自軍の兵士たちのためにこそ、軍事的に意味がなく残虐な殺害は行なわせないようにせねばならない、という発想は十分合理的なはずである。

*1:著者名は調べればわかることながら、一兵卒の行為を非難するのが目的ではないのであえて秘する。当時二等兵

*2:とはいえ、ここでは既に勝敗が決した後、敗残兵を殺害しているのであるから、本来これは言い訳にはならないはずである。

*3:この日記では、戦闘が終わって冷静になってから直ちに自分たちの行為におぞましさを感じている点、「敵」の視点から日本軍の行為を考えてみようとしている点が目につく。従来目にしてきた兵士の日記や回想では「殺害の最中から嫌悪感、ためらいをもった」というパターンか、「後年になって初めて自分の行為の残虐さに気づいた」というパターンが多かったように思う。なお、殺害を楽しむ心理は必ずしも“快楽殺人”的なそれではなく、むしろ通常機能している歯止めをはずして殺人を犯したがゆえの防衛機制のはたらきを意味しているのではないかと思う。ミルグラムによる“アイヒマン実験”でも被験者が笑い出すという反応が見られたという。