吉田裕による『餓死した英霊たち』評

すでに青狐さんが紹介しておられるように、2月号の『論座』で吉田裕が藤原彰の『餓死した英霊たち』(青木書店)の書評を書いている(320-321頁)。2001年に刊行された本の書評がいまなぜ? かといえば「書棚の奥から」という新刊書を対象としない書評欄だからである。
私が『餓死した英霊たち』を読んだ際に書いたエントリはこちら。このエントリで私は『餓死した…』から次の一文を引用した。

戦死よりも戦病死の方が多い。それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である。

最後の「それが本書の目的である」という一文を除いてまさに同じところがこの書評でも引用されているし、藤原彰の遺作『天皇の軍隊と日中戦争』(大月書店)に吉田裕が寄せた追悼文でも同じ箇所が引用されている。中隊長として中国大陸を転戦し、戦後になっても「私は今でも、中隊長としてどうやって部下百数十人の食糧をまかなうか心配ばかりしている夢を見る」と語っていたという(秦郁彦による)この現代史家がどのような思いで『餓死した…』を執筆したかがこれ以上ないほど明確に表現されている。一つだけ付け加えるなら、補給を無視した作戦が「現地」での「徴発」を不可避とし、戦地の住民を不必要に苦しめることになったわけである。
なお、「補給を無視した作戦」とは言っても、こと食糧に関する限り日本軍全体としては必ずしも不足していたわけではないようである。先日古書店インパール作戦の従軍記(軍医によるもの)をみていたところ、前線から後退して来るとそれこそ腐らせるほどに米が集積されていたという記述がある(雨でぬかるむ道路の補修に米袋を使うほどだった、という)のを発見した。機械化が遅れ(あるいは制海権を奪われて)食糧があっても輸送手段がなかったこと、そうした事情を斟酌せずに作戦を立てたことが大量餓死の原因だったのである。牟田口廉也が戦後経営していたレストランの名前は「ジンギスカンハウス」だったというが、これがインパール作戦における補給“計画”(牛に物資を運ばせ、その牛を食べる)を牟田口本人が「ジンギスカン作戦」と称して悦に入っていたことにちなんでいるのだとすると、死者を愚弄するにも程があろう。


なお、この書評を読んで疑問が一つ(部分的に)解決した。「現代史家・秦郁彦 東条宰相「復権」は慎重に判断を」(Sankei Web 【正論】、平成18(2006)年10月15日[日])という記事において秦郁彦が「ガダルカナルニューギニア、レイテ、インパール戦など戦陣に倒れた約230万の兵士のうち、広義の餓死者は私の試算で60万に達する。内外の戦史に類を見ない高比率だ」と書いていることについて、このエントリで「『昭和史の謎を追う』(文春文庫、下巻271頁)では「二〇〇万を越える戦没者の七割前後が広義の飢餓によって倒れたとする試算もあるくらいだが、実数は確かめようもない」としていた(初出は1991年の『正論』掲載論文)秦郁彦だが、ここでは60万という試算がなされている」と疑問を呈しておいたのだが、この書評によれば『軍事史学』第166号(2006年)において秦郁彦が『餓死した…』の餓死者推定を過大と批判し、「南方戦域が六〇%(四八万人)、全戦場では三七%(六二万人)ぐらいが妥当」と主張しているとのことである。どちらの推定がより実態に近いかが更なる研究によって明らかになるかどうかわからないが、いずれにしても異例の割合であることは秦郁彦ですら認める通りである。