兼任男、東條英機

東条内閣発足時に陸軍大臣と内務大臣を兼任していた東條英機が44年には首相・陸相・軍需相に加えて参謀総長をも兼任していたこと(その他、短期間ではあるが外務大臣、文部大臣、商工大臣にもなっている)はよく知られている。

ある日(七月十日頃?)辻〔政信〕中佐に首相秘書官赤松貞雄中佐(34期)から電話がかかってきた。「総理が呼んでいるから首相官邸にきてくれないか」という。ここで辻さん一流の嫌みなパーフォーマンスが出る。「私は総理大臣の部下ではありませんヨ。戦況が聞きたいのなら、陸軍大臣として軍服を着て、陸軍省に来ていただきましょう。」「いや悪かった。陸軍大臣として戦況が聞きたいのだが、今日は陸軍省に行くひまがないのだ。つむじを曲げないで来てくれヨ。」先輩にあいさつさせて辻は出かける。
 首相官邸の大きな机の上に東南太平洋方面の戦況図が拡げられている。東條さんは沈痛な表情である。
陸軍大臣としては大変出過ぎた言い分だが、なるべく早くこの方面の作戦指導をやってくれないかナ。ラバウルから南にも西にも島が続いているのに、どうしたことか飛行場が続いていない。これでは制空権も制海権も失うことになりそうじゃ。どうしてやらないのかナ」と沈うつな表情である。

登川幸太郎『陸軍の反省』86ページより(強調部分は原文では傍点)。これは日本軍の対米戦争準備がいかにずさんだったかの例証として語られているエピソードである。東條の危惧はもっともであるが「どうしてやらないのかナ」もなにも本来開戦前にそのあたりの構想が立っていてしかるべきなのである。しかもこの時辻中佐は独ソ和平、日中和平の途を探るからローマとベルリンに出張させてくれと言い出し、東條に「よけいなことを言うな。お前は大本営の作戦班長だろう。」と雷を落とされたという(つまり、この方面の作戦を真面目に検討している者はいなかった、ということ)。それはさておき、陸軍大将が中佐に「大変出過ぎた言い分」とまでへりくだっているのは「統帥権の独立」の原則ゆえであり、首相兼陸相参謀総長というのがいかに異例な人事であるかがわかる。
だが秦郁彦の『現代史の争点』(文春文庫)中の一節、「東條英機の「戦争責任」」によれば、東條は関東軍参謀長時代にも異例の兼任をおこなっている。37年8月のチャハル作戦時に察哈爾(チャハル)兵団長を兼任して張家口へ向けて進軍したときのことである。参謀長と兵団長の兼任は日本陸軍史上後にも先にもこの一例だけで、陸相参謀総長の兼任に匹敵する異例な人事である。参謀は部隊への指揮権をもたないのが原則だからであるが、この原則を無視して部隊の指揮に口をはさんだ参謀がいた(その好例が上述の辻政信)ことを考えると、異例極まりない人事とはいえ一応筋の通ったかたちにしたところはいかにも東條らしいとも言える(この時、中隊レベルの指揮にまで口をはさんだとされていることも含めて)。


察哈爾兵団は9月9日に陽高という街で非戦闘員の大量虐殺事件を起こしている。秦郁彦によれば苦戦の末市街を占領した日本軍が成年男子を狩り出して集団殺害(350人とも500人とも言われる)したという、類型としては南京事件における「便衣兵狩り」と同じ事件である。この事件が東京裁判でも中国の行なった戦犯裁判でも見逃されてしまっているのは、この時期の東條の肩書きが関東軍参謀長として理解されており、一時的な察哈爾兵団長という経歴が見逃されたのが一因ではないか、と秦郁彦は推測している。