外からつけられた紐ではなく

現実にドイツで行われていることは、排外思想、ヘイトスピーチへの弾圧以外の何者でもないでしょう。それは「当然弾圧されるべきものを弾圧してるだけ」というのがそちら側の主張なんでしょう?
(http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20090701/1246470760#c1246750001)

昨年末の時もそうだったけれども(例えばこのエントリ)、私が問題にしたいのはまさにこういう態度。
表現の自由」を支持する議論としてはまず「民主的な政治に不可欠」とするものがあるわけだが、それだけならば政治的な主張の自由が保障されれば足りる*1。より広範な表現の自由が擁護されるべき理由はなにか・・・? とというならばわれわれが行き着くのは「個人の尊厳」だ。多様な表現を行ないまた多様な表現を享受することが人間の尊厳にとって極めて重要であるからこそ、非政治的な表現も含めてその自由は尊重されねばならないわけである。
そしてナチス・ドイツによるユダヤ人や同性愛者、シンティ・ロマなどの大量虐殺は、人間の尊厳に対するもっとも重大な挑戦の一つだった。だからこそホロコースト否定論の違法化といった選択がいくつかの国においてなされているわけだ。ヘイトスピーチの法規制にしても同様で、ヘイトスピーチはそれ自体が人間の尊厳に対する侵害であるだけでなく、ヘイトスピーチが引き起こすマイノリティへの脱共感は大量虐殺に必要な要因だからだ。
とするなら、表現の自由を真面目に考えようとする人間が、ホロコースト否定論の違法化を「はいはい、言論弾圧乙」的な態度で片づけることなど可能であるはずがない。そうした軽薄な態度は、表現の自由それ自体の基盤をも掘り崩すのだから。疑う余地なく人間の尊厳を損なう表現をあえて法的に保護することがいったいどのように人間の尊厳を守ることにつながるのか、脂汗流しながら考えるのが筋ではないのか。ホロコースト否定論を違法化するというドイツ社会やフランス社会の決断を真面目に追体験してみようとすること(最終的にその決断に賛同するかどうかは別として)がなぜできないのだろうか? できない、というよりやる気がないといった方がいいのだろうか。そうでないとして、いったいなにをどう考えたらこんな↓くだらない詭弁がひねり出せるのだろうか?

 そもそも、ヘイトスピーチを発言することそのものの何が間違っているのか理解できません。たしかにヘイトスピーチの内容は批判に値するかもしれませんが、しかしながらヘイトスピーチを含めて何かを発言することそのものは人間にアプリオリに与えられた所与の権利であって、それそのものは間違っているなどと口が裂けても言えないでしょう。
(http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20081217/1229517030)

私は「間違ってる」と言ったけど別に口は裂けなかったな。この↑発言が実は「間違う権利」を否定しているのは注目すべきことであろう。発話行為は発話内容の真実性要求を含意するのだから、「間違ったこと」を発言することはもちろん「間違って」いるのであり、発言を「間違っている」と評するつもりのない人間がその発言内容を「間違っている」と評することなどできるはずがない。

*1:児童ポルノの単純保持の違法化をめぐっては、それが警察に別件逮捕等の手段を与えるからまずいといった類いの議論を見かけるが、公安にしてみたら別に児童ポルノの単純保持が違法化されなくても使えるツールはなんぼでもあるわけで、まあ公妨なんかよりは「破廉恥」というレッテルを貼れる分使い甲斐があると思うのかもしれないが、たかだかその程度の話。表現の自由に対する政治的な弾圧のことを心配にするのなら、逮捕状、捜査令状の請求や勾留請求に対して裁判所がまじめにチェック入れることの方がよっぽど重要だろう。